第8章 近現代史
中華人民共和国と毛沢東
中国革命の勝利がアジアにおける世界史の画期であったことに加えて、中華人民共和国の建国後の歩みは、現代史におけるもっとも刺激的なドラマでもあった。
- 1949年10月1日、中国革命を支えた広範な民族統一戦線を基盤に、毛沢東を主席とする中央人民政府を樹立し、暫定的な行政機構としての政務院を形成した中国は、人民民主主義独裁の国家として誕生したのであった。中華人民共和国の成立を宣言した毛沢東は、日中戦争期に党内の権力を掌握し、亡くなるまで強力なリーダーシップを発揮しつづけた。 人民共和国建国後の約 30 年聞は、毛の情勢認識と判断が重要な政策方針を左右した「毛沢東時代」だった。
- しかしそれからの歩みは決して平坦なものではなく、内戦で荒廃した国土や生産を立て直す必要に迫られていたにも拘らず、朝鮮戦争、ソ連との軋轢、内政の失敗、冷戦時代、封じ込め政策、ベトナム戦争、中印紛争、文化大革命などなどの苦難の道を歩かなければならなかった。
- その中にはもちろん毛沢東の失敗もあるが、冷戦、封じ込め政策、スターリンの横やり、ソ連との抗争などなど中国にとっては好ましくない国際関係に悩まされる事柄の連続であった。
- 1981 年に採択された「歴史決議」では、毛は文革において重大な誤りを犯したが、なお功績が上回っているという評価を下している。しかし、暴力を伴う大規模な政治運動に民衆を動員することで、中心的な政策を遂行していったことが、毛沢東の政治手法であった。このような過ちは大躍進以後の一時期にとどまらず、彼が党内でイニシアティブをとってから一貫して続けられており、その誤りは彼が死ぬまで克服されることはなかった。しかも悪いことにその悪しき母斑は、今なお克服されてはいない。
我々が中国を見る場合得てして今日の文化水準やレベルでそれが当たり前のこととして判断しがちであるが、まさしく辛亥革命以来の100年の歴史を踏まえて、中国を見なければ、現在の中国ばかりか将来中国がどう変化して行くのかを見ることはできない。その上で好き嫌いの感情論はさておいて、大局的にかつ中国を他山の石として冷静に見て付き合っていかなければならない。
なぜなら中国と日本は隣人同士という関係は変えようもなく、過去3000年間基本的には友好関係を結んできたわけであり、今後もその関係を続けることは我々が生きていく上で不可欠なことであると考えるからだ。
「新民主主義」から「過渡期の総路線」 へ
このような中国にとって、まず必要な国家的・社会的課題は、革命と内戦で破壊され疲弊した国民経済を復興させることであった。こうして中国は国営経済を指導的ファクターにしながら、「公私兼顧・労資両利」の原則にもとづき、私的資本主義経済・国家資本主義経済を調整しつつ、国の再建にのりだしていった。ここに中国は、いわゆる新民主主義国家(人民民主主義独裁の国家といってもよい ) として社会主義改造に着手していく体制を形成しはじめたのであった。
対外的には中華人民共和国成立後、いちはやくソ連、東欧の社会主義諸国やインドなどのアジアの国々が、そして翌五〇年になるとイギリスも中国に承認を与え、新生中国は世界に向かってその第一歩を踏み出していった。
しかし、朝鮮戦争が勃発し、極東における冷戦が本格化する中で、その方針は転換していった。
- 1953 年、毛は「過渡期の総路線」を提起し、社会主義への 早期移行を主張した。その過程では毛の強引な手法が発揮され、急激な変革は各方面で多くの矛盾や問題を発生させた。
- 同年には第1次5カ年計画が始まり、
- 1954 年には全国人民代表大会 ( 国会 ) の発足と社会主義の原則を採用する憲法の公布、
- 1956 年には農商工業の「社会主義改造」をほぼ完了するなど、急速に「社会主義体制」を構築していった。
もとより、社会主義兄弟国のソ連との友好関係の形成が当時の最大の対外目標であり、ソ連の援助のもとに新国家の工業建設に着手しようとしたのであった。しかし、スターリン体制下のソ連が中国に与えた援助は中国側の期待を大きく下まわり、このときの中ソ交渉もスターリンの冷淡な対応のもとに難航を重ねたことが今日明らかになっている。しかも、建k国まもない中国は、一九五〇年六月、朝鮮戦争の勃発に直面し、同年一〇月には中国人民志願軍を朝鮮に派遣することになり、中国はふたたび臨戦体制をよぎなくされ、ここに全国的な抗米援朝運動が展開されたのである。周知のように朝鮮戦争は、米中対決というアジアの冷戦構造の基本パターンを形成することになったが、この間、50年10月、チベットも解放され、台湾本島と彰湖諸島および金門島、馬祖島を除く中華人民共和国の版図がここに基本的に確定した。
中国型社会主義の模索と挫折
1956 年 4 月、毛は「十大関係論」で諸矛盾を緩和するよう各方面のバラ ンス改善を主張したが、それはまた、同年 2 月のスターリン批判を受け挫折(中国型社会主義を模索する一歩でもあった。)
1957 年末頃から生じた中ソ聞の亀裂は 次第に深まり、
中国は自力での核武装をめざし、重工業化に傾斜した経済建設を加速させた 。
1958 年から国力無視の大増産をめざす大躍進と人民公社化が 強行されたが、失敗し、一時的に調整政策を採用せざるを得なかったが、国際的な緊張の高まりから、
1959 年、調整政策を継続しようとした国家主席に就任した劉少奇を文化大革命を発動して失脚させた。
アメリカとの関係改善へ
文革は米・ソ 2 大国を敵とする極度の緊張状態の中で発動されたが、基本は「反ソ」の選択であり、ソ連との対立をいっそう深めた。 ソ連との武力衝突が発生するなか、中国は対米接近を図り、
- 1971 年に米国との関係改善を、
- 1972 年に日本との国交正常化を達成した。
これ以降、中国を取り巻〈国際情勢は徐々に緩和し、
- 1978 年からの改革開放路線を準備することになった。
土地改革
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中国革命の勝利がアジアにおける世界史の画期であったことに加えて、中華人民共和国の建国後の歩みは、現代史におけるもっとも刺激的なドラマでもあった。
我々が中国を見る場合得てして今日の文化水準やレベルでそれが当たり前のこととして判断しがちであるが、まさしく辛亥革命以来の100年の歴史を踏まえて、中国を見なければ、現在の中国ばかりか将来中国がどう変化して行くのかを見ることはできない。その上で好き嫌いの感情論はさておいて、大局的にかつ中国を他山の石として冷静に見て付き合っていかなければならない。 なぜなら中国と日本は隣人同士という関係は変えようもなく、過去3000年間基本的には友好関係を結んできたわけであり、今後もその関係を続けることは我々が生きていく上で不可欠なことであると考えるからだ。 |
| 「新民主主義」から「過渡期の総路線」 へ このような中国にとって、まず必要な国家的・社会的課題は、革命と内戦で破壊され疲弊した国民経済を復興させることであった。こうして中国は国営経済を指導的ファクターにしながら、「公私兼顧・労資両利」の原則にもとづき、私的資本主義経済・国家資本主義経済を調整しつつ、国の再建にのりだしていった。ここに中国は、いわゆる新民主主義国家(人民民主主義独裁の国家といってもよい ) として社会主義改造に着手していく体制を形成しはじめたのであった。 対外的には中華人民共和国成立後、いちはやくソ連、東欧の社会主義諸国やインドなどのアジアの国々が、そして翌五〇年になるとイギリスも中国に承認を与え、新生中国は世界に向かってその第一歩を踏み出していった。 しかし、朝鮮戦争が勃発し、極東における冷戦が本格化する中で、その方針は転換していった。
中国型社会主義の模索と挫折
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