総目次

 目次 

1 歴史

先先史 アジアのあけぼの
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ここでは、人類の誕生から人間へそして文明の誕生までの経過を探ります。
6  古代文明~唐代
157
近代以前の中国史の特徴
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近代以前の中国史の特徴:秦の始皇帝が即位してから清王朝滅亡までの2100年以上の政治体制と仕組み、農村と都市の民衆、思想宗教・政治社会について概括的に述べている。
黄河文明
160
黄河文明:南の長江文明と共に中国文明の源流。同じ黄河文明でも仰韶文化・龍山文化では、画期を為すほどの違いがある。
長江文明
162
長江文明:近年の中国各地での遺跡の発掘が進展すると、黄河流域の新石器文化とは異なる文化が長江流域で高度に発達を遂げていたことが分かった
夏王朝
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夏王朝:母系制社会から父性社会に移行しており、地域社会の統合が進展するとともに人々の聞で階層差が顕著に表れたことが窺える。仰韶文化・龍山文化の高度な生産力を背景に、中原に出現した強大な権力を持った王朝。この王朝は以後長く続く「中華思想の原点」を体現していく。
 BC2000年には既に確固とした税制を築き上げていた。
殿王朝
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殷王朝:殷は紀元前1500年頃から紀元前11世紀頃まで、河南省を中心とする華北平原に栄えた王朝である。社会体制は奴隷制を基盤とした神権政治。殷朝の文化のシンボルは青銅器を作った坩堝。またもう一つ殷後期の文化を特徴づけるものは、大量の甲骨の存在である。
番外編
奴隷社会の土地制度と税制
該当なし
殷、商、周の三代の土地制度と税制:井田制は中国奴隷社会の土地制度である。
天子は封賞として公田を臣下に与え、臣下は天子に貢賦を納付した。これにより私田が発生した。
 井田制は瓦解を始めた。同時にこの貢賦制度は、中国農業税の先駆けとなった。
西周時代
168

西周時代:紀元前11世紀、周の武王が殷の紂王を破り、現在の陜西省西安市周辺を中心として周王朝を打ち建ててから、紀元前8世紀に洛陽に遷都するまでの約250年聞を西周時代と呼ぶ。洛陽遷都以降は東周時代、あるいは春秋戦国時代と呼ばれる。
春秋戦国時代
170
春秋戦国時代:春秋戦国時代は大きな変革を経験した時代である。
この時代に達成された製鉄技術の進歩は、武器の長足の進歩と共に、農業技術や農器具にも目覚しい発展を促し、農業生産も大きく発展をした。この時代では産業革命と呼ぶべきものかもしれない。
諸子百家
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諸子百家:儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家の九家 (「漢書」 芸文志 ) に、さらに兵家を加えた十家を諸子の学派と考える。  西周封建の秩序が崩壊し社会が大きく変わろうとする変革期に、多くの思想家が、どのようにして社会を治めるかという統治論を唱えたが、同時代ならびに後世に最も影響を与えたのは、孔子・孟子・荀子らの儒家の思想である。
秦漢時代
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秦漢時代:紀元前221年に秦の始皇帝が全国を統一してから、紀元前206年、漢の劉邦が秦を滅ぼすまでのわずか15年が、秦の時代。非常に短い期間であったが、歴史的には画期をなす非常に重要な期間である。
それに続く漢王朝は、秦が倒れてから後漢の献帝が魏に「禅譲」するまでの420年ほどの間を言う。途中「新」という国が建てられるが、一応前漢と後漢を通して漢の時代と称する。
三国時代
176
三国時代:後漢の献帝が曹丕に皇帝位を「禅譲」してから、晋が呉を滅ぼして中国を統一する(280年)までの61年間である。 この時代の中国史上における大きな特徴は、およそ400年間続いた中国社会の秩序が崩壊・変容する中で新しい秩序が再構成されていく点にあり、三国時代に創設された制度の多くが晋・南北朝に踏襲された。
古代中国の少数民族
178
少数民族:古代中国の民族分布は、主に中原を中心に、漢民族が居住していたであろう。
 その他の広大な地域には少数民族の人々が点在、あるいは遊牧生活で生計を支えていたであろうことは、推測されている。そして経済活動発展?の結果、次第に少数民族は辺境に追いやられて行ったもの事実だろう。
晋・南北朝時代
180
晋・南北朝:後漢末期の黄巾の乱からはじまり、隋が中国を再び統一するまで184年-589年の約400年を指す。
隋唐時代
182
隋唐時代:隋唐時代は、均田制・租庸 調制・府兵制により財政・軍事の基礎を固めようとした三位一体 の制度が確立したが、この制度は戸口調査によって民衆を個人単位で把握し、個々人に税負担を課すことで成り立っていた。かくして、一人ひとりを把握する戸籍制度が確立したときでもある。
魏晋南北朝隋唐時代の文化
184
コラム伝統的価値へのこだわり
186







7 宋代~清代
187
唐末から五大十国を経て宋建国までをアップしました
188
宋の時代:この時期には、貴族層の没落、農業技術や産業の発 達などによる経済や都市の発展、形勢戸と呼ばれる新興地主層の出現など政治・社会・経済の面で大きな変動が見られた ( 一般に唐宋変革と呼ばれ る )。
 宋代は中国封建主義で経済的に猛烈に速く発展した時期であった。 宋王朝は農業生産の発展のため、いろいろの措置を取ったことにより、宋代の農業経済的な前代未聞の繁栄の出現を呈した。
遼・金・西夏
190
契丹(遼)、西夏、金:唐の力が衰えると北方に遼(契丹)、西夏、金という国が出現し、中国文化と民族文化を融合した独特の文化が花開く。そして、やがてはモンゴールの世界制覇を準備する形となり、モンゴールに覇を譲ることになる。>
192
:モンゴル族が建てた王朝である。チンギス汗がモンゴルを建国して以来、モンゴル支配ほどアジアの東と西とが結ばれた時代はないといわれている。それは、陸路の交通インフラの整備が発達したばかりでなく、海路においても、航海技術の発展が見られ、アジアはもちろんのこと、インド、アフリカまで及ぶ交易がなされていた。
194
明:元代末期の群雄割拠の時代に頭角を現したのが貧農出身の朱元嘩 ( 太祖洪武帝 ) である。彼は、 1368 年に南京で皇帝に即位して、明を建国した (1368-1644 年) 。都は南京に置かれた。
明末清初
196
明末から清へ:この時代の工業は最初絹織物を中心とする家内制手工業の形態であったが、次第に大規模生産の綿織物、金属冶金業、製油業などで大規模な工場をもち、賃労働者という資本主義の萌芽携帯といえるような状態まで発展していた。
 また農業生産においては、既に見たようにアメリカ大陸の発見、ヨーロッパ列強の植民地拡大などによりアメリカ原住民の農産物がもたらされるようになり、中国においてもこれら農産物の栽培が定着し生産性が拡大するようになって来た。この時代は中国においても、資本主義の萌芽が見られるようになり、新しい時代への準備が徐々に(しかしかなり緩やかに)進んだ時代とも言える。
明・清の税法改革
196-198
明・清の税法改革:明と清が引き続き行った税法制度改革「一条鞭法」と「摊入地亩」は一定程度の漢唐以来の人頭税を廃し、農民対封建国家の人身に寄り添って頼る関係を一歩緩めた。田畑納税の按分は土地を持たない農民の法律上納税をなくした。賦役の不均等の現象は緩和された。生産の発展と社会の安定に有利に働き中国の人口増加と社会経済の発展に重要な意義をもたらした。
198
清:清は、明の制度を良くも悪くもほぼ継承して、儒学を振興し、科挙を実施したが、その一方で、緑営 ( 漢人の軍隊 ) 以外に八旗を要地に駐屯させ、中央官庁の要職の定員を満・漢同数にするなど、分割支配を考慮した独自の制度も設けた。
18 世紀には、人口が 1 億数千万人から約 3 億人へと激増した。 その結果、山地開墾が進み、耕地も大いに増大し、外来のトウモロコシなど商品作物の栽培が盛んになったが、人口がそれ以上に増えたため、土地不足は解消できず、農民の貧困化や開墾による環境破壊が進み、18世紀末、7代嘉慶帝の時代には、四川などの新開地で大規模な白蓮教徒の乱が発生した。
清朝とモンゴル・新彊・チベット
200
清領土支配:現代中国の大枠が決定:チベット自治区・新彊ウイグル自治区・内モンゴル自治区・青海省を含む現代の中国の領域が大枠で形作られたのは、清の乾隆帝の時代である 。  清代には、中国内地とは区別され、藩部と呼ばれていた。では、これらの地域はどのような歴史を たどって清朝の領域・体制に包含されていったのであろうか。
宋~明の文化
202
宋~明の文化
伝統中国社会のあり方
204
伝統中国社会は、日本で伝統日本社会が形づくられたという江戸時代より古く宋代に基礎が形作られ、明清時代に完成したと言われている。
コラム年画
206
コラム年画
明朝異聞(番外編)
206
明朝の成り立ち:明太祖の性格は暗く、底知れぬ残酷さによって功臣に恐怖をあたえた。この暗さが明王朝蒜の政治に大きな陰影を投じたことは争えない。その太祖の性格の暗さが明朝の政治にどう反映されたかを探るのも面白い。
 明の皇帝は初代の洪武帝と2代目の建文帝から力ずくで王位を奪い取った永楽帝の2人だけが傑出しているようで、あとは暗君で、この近代に橋渡しをすべき大事な時に宦官が政治を左右したということは中国の最大の不幸というべきかもしれない。




8 近現代史
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近現代史;本章では清朝末期のアヘン戦争に始まる列強各国の侵略の歴史から、辛亥革命を経て「文化大革命終了」までの130年の歴史を取り扱う。

  • 私は中国にとって「辛亥革命」の持つ歴史的意義はどこにあったのか、そしてその弱点は何だったのかを総括すること。
  • そして「文化大革命」の歴史的総括と評価と教訓を深く探求すること。
の2点が、今後の中国に非常に大切なことではないかと思う。 この観点にたって、中国の歴史を振り返ってみたい。
アヘン戦争
208
アヘン戦争:イギリスは、インド農民にイギリス製綿布を消費者させ、代わりにアへンを生産させ、そのアヘンを中国に密輸するという最もあくどい三角貿易を行うようになった。このため中国ではアヘンの中毒が蔓延すると同時に、アヘンの代価としての銀が多量に流出し、銀の代価が高騰し、中国の経済に深刻な打撃を与えた。清朝はこれを阻止するため、禁輸措置などを行ったが、イギリスは中国に戦争を仕掛け、アヘン戦争が勃発した。
太平天国の乱
210
太平天国の乱:鮮明に資本主義化の方向を打ち出そうとしていたし、初歩的な民主法制化の思想を打ち出そうとしていた。総じて、太平天国を支えたものは平等思想、封建支配からの解放の要求であり、民主化において一定の成果をあげたということができる。しかし、やがて旧態依然とした王朝支配の側面も持つようになり、幹部の反目もあって、組織的には内部から瓦解し始めた。
 こうして、太平天国の乱が、終わると共に、彼らの掲げた近代化や民主法制化の思想も流産してしまうこととなる。
洋務運動
212
洋務運動:アへン戦争以来の欧米との戦闘経験は、その軍事力の優越性を否応なく思い知った。そこで1860年代より、清朝当事者の手による軍事分野の近代化が開始された。
 これを端緒として、はじめられた近代化・西洋化の取り組みを「洋務」と称する。以後日清戦争に至るまで、「西洋の実務」を取り入れるべく、複数の分野で近代化が推進されていった。
日清戦争
214
日清戦争:日清戦争の結果、中国は列強帝国主義国から植民地的支配を受け、長きにわたって外国の蚕食を受けることとなり、中国の近代化は著しく遅れた。かくして、アヘン戦争以来50年の清国の国際的地位の失墜はいよいよ決定的なものとなり、これから先、清朝が倒れ、中華人民共和国が建設され、独立を達成するまでの更なる50年間いばらの道を歩むこととなった。さらに経済的には、その負の遺産を払拭するまでの間、さらに50年の月日を要することとなる。
義和団事件
216
義和団事件:終焉を迎える清朝にとってはいよいよ断末魔の叫びをあげ、のた打ち回ることになる。そして、辛亥革命を迎え長い苦しみを伴う近代化に突入をする。これから約百年間は5000年の中国がかつて経験のしたことのない、屈辱と苦しみの1世紀となる
辛亥革命と孫文
218
辛亥革命:中国歴史始まって以来延々と続いた専制君主制を打倒し、共和制という新しい政治体制をもたらした政治的意義は計り知れない。また同時に経済的なものも含め、中国社会が近代に歩みだす扉をこじ開けた大きな大きな一歩だろう。
中華民国
220
中華民国:この中華民国は大きく言って三つの時期に分けられる。それは、北京政府時期 (1912-28 年)と南京政府時期(1928ー49年)と台湾政府時期(1949-)である。
中国国民党と中国共産党
222
中国国民党と中国共産党:この二つの党が歩んだ道は、アヘン戦争に始まる列強帝国の侵略、日本帝国の支配を排除していく困難な道のりであった。そして戦後は二つの国に分断され、今日に至っている。
国民政府と蒋介石
223
国民政府と蒋介石:国民政府の時代の中には、その反共主義的なかたくなな態度から、長い間中国を分断に導き、近代国家としての出発を大きく遅らせたなどのマイナスの側面も大きい反面、国共合作の時代もあり、中国共産党と協力して対日戦線で勝利したことや、中国の主権の回復、経済発展などに功績を残すなどのプラスの側面もあり、再評価が進んでいる。
国共の合作と対立
224
国共合作 1924年に第一次、そして1937年に第二次と2度にわたって行われている。
 それらはいずれも形の上では中国国民党と中国共産党の2つの党による合作であったが、その背景はいずれも列強の帝国主義的搾取と収奪が激化し、それに対する大衆運動や労働運動が盛り上がり、統一戦線が大きな広がりを見せていたことである。
国共内戦
225
国共内戦:中国は二度にわたる国共合作を行い、それに対応して2度の国内内戦を経験している。しかしこれらの2度にわたる国内内戦は、いずれも蒋介石が仕掛けたものであり、その意味では蒋介石側にとって大義がなかったといわねばならない。
抗日戦争
226
抗日戦争:1931年柳条溝事件、1937年盧溝橋事件、南京占領、重慶空爆と日本は矢継ぎ早に中国との全面戦争拡大の泥沼に入って行く。そしてついに1941年アメリカに対し宣戦布告に至り、日中戦争はもはや二国間戦争ではなく、アジア太平洋戦争という世界戦争に性格を変えて行った。
中華人民共和国と毛沢東
228
毛沢東路線:中国革命の勝利がアジアにおける世界史の画期であったことに加えて、中華人民共和国の建国後の歩みは、現代史におけるもっとも刺激的なドラマでもあった。
土地改革
230
土地改革:土地改革とは地主や富農と認定した大土地所有者から土地や農具その他の財産を没収し、貧しい農民に分配する改革である。1950年6月、土地改革法を公布に始まり、52年末をもって完了した。これにより2000年間、中国社会を特徴づけてきた中国農村の状況は一新された。それは土地の均分を求める中国農民の二千年来の願望であったといえる。
朝鮮戦争
232
朝鮮戦争:朝鮮戦争は、北朝鮮によってはじめられたものかもしれないが、その後の展開は、アメリカがソ連や中国や社会主義国を封じ込め叩き潰す千載一遇のチャンスととらえ、仕掛けたものと考えても不思議はない。もう一度アメリカの功罪を振り返る必要がありそうだ。
百花斉放・百花争鳴と「反右派」闘争
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「百花斉放・百家争鳴」は1956年から翌年にかけて、共産党が呼びかけた文芸・学術活動の多様化および言論自由化のスローガンである。あわせて「双百とも言う。
大躍進と人民公社
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大躍進と人民公社:「国力を無視した高い目標」が各方面で立てられ、下級では超過達成を上級に虚報し、さらなる目標の引き上げが行なわれるという悪循環が国を挙げて各方面で展開され、無謀な計画と過大な投入や建設の結果、経済は破綻し、数千万人の餓死者を出すにいたった。このようなばかげたことが、なぜ近世社会に起こるのか? 他山の石とすることなく、自らの将来に起こりうる問題として、捉える必要性を痛感した。
文化大革命
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文化大革命:文革は毛沢東が起こした権力闘争とみなされることが多いが、中国全土が 10 年にもわたり 動乱状態に陥ったのは、建国以来の社会主義建設が各方面において産みの苦しみの矛盾を蓄積していたからであり、疑心暗鬼に陥っていた毛沢東は、民衆の不満が一気に爆発させ、一挙に政治浄化を狙った左翼冒険主義的な誤りである。
コラムカード社会化とネット・ショッピング
240
番外資料:辛亥革命の背景と評価
番外
辛亥革命の背景と評価:中国共産党はこの辛亥革命をどう評価しているか。「中国共産党簡史」(中共中央党史研究室著、2001年)

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