中国史 近現代概括 アヘン戦争から文化大革命までの130年を概括する



第8章 近現代史 Contents

 本章では清朝末期のアヘン戦争に始まる列強各国の侵略の歴史から、辛亥革命、中華民国の成立、抗日戦争そして第二次世界大戦を経て文化大革命終了までの130年の歴史を取り扱う。この時代は中国の国民にとっては最も苦難の時代といっても差し支えないだろう。そしてその苦難の時代を経て中国は、今日世界の命運を握る超大国になった。本章では清朝末期のアヘン戦争に始まる列強各国の侵略の歴史から、辛亥革命、中華民国の成立、抗日戦争そして第二次世界大戦を経て文化大革命終了までの130年の歴史を取り扱う。この時代は中国の国民にとっては最も苦難の時代といっても差し支えないだろう。そしてその苦難の時代を経て中国は、今日世界の命運を握る超大国になった。  しかし単に結果や過去の歴史上の出来事を云々するだけでは、歴史を学んだことにならない。  私は、

  • 「辛亥革命」の持つ歴史的意義はどこにあったのか、そしてその弱点は何だったのかを総括すること。
  • そして「文化大革命」の歴史的総括と評価と教訓を深く探求すること。
 の2点が、今後の中国に非常に大切なことではないかと思う。

 これは日本の明治維新と第二次世界大戦の検証と評価をあいまいにしたことによって、現代の日本人の歴史観の惨憺たる現状を招いていることに照らしてもよく理解できることではないだろうか。

 この観点にたって、中国の歴史を振り返ってみたい。それが日本の生きる道を見出すことにもなるだろうから。





第8章 近現代史 アヘン戦争

アヘン戦争
  イギリスは1840 年よりアへン戦争を仕掛け、一貫して優位 に立って戦局を展開させ、1842年 8 月に南京条約が両国間で締結された。かくして、イギリスは清朝に対して上海・慶門・広州・寧波・福州の 5 港を開港場として対外貿易に開放させ、そこでの自由貿易を承認させた。 そして、翌年に追加締結した虎門さい条約で関税自主権喪失を意味する協定関税制度や治外法権を承認した租界設定、領事裁判権なども獲得し、米仏などの諸国もその後次々と同様の条約を締結したことで、中国と欧米各国との不平等関係が確立された。
 さらに第2次アヘン戦争の結果も含め屈辱的な諸条約により、国際関係の第一歩を踏み出し、近代への幕を外圧によって強制的に開かされた。アへン戦争は中国の旧体制の解体を促し、中国を新しい国際環境、すなわち世界資本主義体制のなかへと引きずりこんだのである。そして中国にとってはまさに100年苦難の歴史の始まりとなるのである。当時のヨーロッパ列強、アメリカ、日本はこれ以降中国を貪り食うということになる。
背景
 18世紀末以後、清朝の封建支配は衰退し、中国社会は解体過程に入った。中国をめぐる国際関係にも大きな変化が現れ、いち早く産業革命を達成したイギリスは、インドに覇権を確立した後、植民地と市場を求めて中国進出を企てた。イギリスは18世紀中頃から中国貿易を独占し、中国から絹・茶・陶磁器等を輸入した。なかでも茶は輸入量が増大し、そのため多量の銀がイギリスから流出した。 しかし、産業革命を迎えたイギリスには銀が必要であったことから、イギリスは、インド農民にイギリス製綿布を消費者させ、代わりにアへンを生産させ、そのアヘンを中国に密輸するという最もあくどい三角貿易を行うようになった。このため中国ではアヘンの中毒が蔓延すると同時に、アヘンの代価としての銀が多量に流出し、銀の代価が高騰し、中国の経済に深刻な打撃を与えた。清朝はこれを阻止するため、禁輸措置などを行ったが、イギリスは中国に戦争を仕掛け、アヘン戦争が勃発した。(「中国現代史」 中嶋峯雄篇、1998年参照)

    アヘン戦争の経過と結果
    アヘン戦争前夜の中国
      当時、清朝官界の腐敗はその極に達し、官僚の多くは賄賂を貪り、特権商人や大地主とともに既得権にしがみつき、地位の安全を求めるだけであった。 また、アへンの悪習にもっとも早く染まったのも官僚であったといわれている。半ば公然とアへンが密輸入されたのは、イギリスがこの腐敗しきった官僚機構を利用したからでもある。
    アヘン戦争勃発
      当時、清朝官僚のアへン貿易に対する態度は、「弛禁論」と「厳禁論」に分かれていた。当時の皇帝道光帝は厳禁論をとり、林則徐を欽差大臣として広州に派遣した。1839年3月、彼は広州でアへンの販売と吸飲を厳禁する布告を出し、官吏・軍人の綱紀を粛正した。また、外国商館の封鎖をおこな い、イギリスの商務監督官チャールズ・エリオッ卜を監禁し、約二万箱のアへンを没収して、これを石灰で処理して海へ流し捨てた。 イギリスはこの処置を財産侵害だとし、1840年6月、イギリス艦隊 を派遣し、アへン戦争が始まったのである。その後イギリス艦隊は南京を脅かすにおよび清朝は圧力に屈し、南京条約を締結。その内容は①香港の割譲、②広州・福州・医門・寧波・上海五港の開港、③領事館の設置、④賠償金2100万ドルの支払、⑤公行の廃止、⑥関税の協定、⑦対等関係の確認、⑧領事裁判権、⑨最恵国待遇の規定等であり、中国にとっては著しく屈辱的なものであった。
      第2次アヘン戦争 このような不平等条約の締結にも拘らず、イギリスは更なる利権を求め、他の列強国と共に中国に付け入る隙を探っていた。1856 年に広州で発生した英国船籍のアロー号拿捕事件などを口実に、1857年再び中国に対して開戦した。
       1858 年 6 月には天津条約が締結され、いったん講和が成立した。しかし、1859 年 6 月に再び衝突が発生して戦争が再開された。 そして 1860 年 9 月に英仏連合軍は北京に迫り、郊外の離宮円明園で大規模な略奪と破壊を行なった。結局同年 10 月に北京条約が締結された。
    こうして、中国は膨大な債務を抱え、財政の逼迫と共に清朝の権威は完全に失墜し、国力は失われていくことになる。

    アヘン戦争は中国に何をもたらしたか
       中国はこのような屈辱的な諸条約を結ぶことにより、国際関係の第一歩を踏み出し、近代への幕を外圧によって強制的に開かされた。アへン戦争は中国の旧体制の解体を促し、中国を新しい国際環境、すなわち世界資本主義体制のなかへと引きずりこんだのである。(「中国現代史」 中嶋峯雄篇、1998年参照)
    こうして中国人民は、急速に市場経済の中に投げ出されると共に、それでも尚、土地にしがみつく旧態依然とした地主や軍閥などの旧勢力や外国資本と結びついた新興資本家等の二、三重の搾取と収奪を以後約100年間にわたり、受け続けることとになる。
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    第8章 太平天国の乱

    太平天国の乱
     清末、華中・華南の沿海都市近郊では、「資本主義の萌芽」ともいわれる新しい生産様式がみられたものの、清朝の土地税の収奪と、郷紳・地主・富商らの市場独占は、近代化を大きく妨げていた。 且つ「寄生地主制」が発展し、その一方に零細な佃農・雇農、雇傭労働で飢えをしのぐ窮民・遊民が増え社会不安が増大していた。
      一方アへン戦争後もアへン輸入は増え続け、膨大な銀が流出し、銀価は高騰し続けた。加えて列強への巨額の賠償金や軍事費も、民衆に付加税として課せられたし、さらに、外国工業製品の輸入は開港場一帯の手工業を破壊し、社会不安が高まりは極限に達していた。
     
    歴史的背景
       清末、華中・華南の沿海都市近郊では、各種の・商品作物を生産する地主や富農が出現し、絹織物・綿織物・製茶等の手工業も発展して、「資本主義の萌芽」ともいわれる新しい生産様式がおこりつつあった。しかし、清朝の土地税の収奪と、郷紳・地主・富商ら特権的前期資本の市場独占は、資本主義への発展、すなわち近代化を大きく妨げていた。 且つ郷紳・地主らは自小作農や中小地主の土地を集積し「寄生地主制」が発展し、その一方に零細な佃農・雇農、雇傭労働で飢えをしのぐ窮民・遊民がいた。
      これら没落した農民や務民は秘密結社、いわゆる会党・教党等に結集し、華南の沿海地方から揚子江流域一帯で反政府的暴動をおこした。華中・華北でも弥勅信仰を中心に異端宗教 ( 邪教 ) の諸結社が組織され、清朝の取締りにもかかわらず根強く活動していた。  一方アへン戦争後もアへン輸入は増え続け、膨大な銀が流出し、銀価は高騰し続けた。加えて列強への巨額の賠償金や軍事費も、民衆に付加税として課せられたし、さらに、外国工業製品の輸入は開港場一帯の手工業を破壊し、社会不安が高まった。特に、広東・広西・湖南の社会的動揺は深刻で、反清的秘密結社天地会の暴動や少数民族の反乱等が頻発した。また、各地に税の減免を求める抗糧運動も展開した。これらの暴動や反乱が全国的な親模に拡大する素地は、客観情勢としては十分にあり、やがて洪秀全を教祖とする異色の宗教結社拝上帝会が現れるのである。

    太平天国の乱で何を実現しようとしたか

      こうした背景の下に洪秀全を教祖とする異色の宗教結社拝上帝会が現れ、生活苦にあえぐ貧民を吸収し、瞬く間に勢力を広げ、 1851 年に挙兵し、ここに以後 14 年にわたる太平天国の乱が開始された。
       それはエホバ ( 天父上皇帝 ) を創造主とする唯一神教で、衣食住等いっさいは上帝の所有物で、それをすべてのものに均等に分与すると説いた。洪秀全は都を南京に置き、「天朝団畝制度」を発布して、新国家の政策を明らかにした。それは信者である貧農・鉱夫・水夫らを救済することをうたい太平天国の理想を具体化し、まず農地の私有を禁止して、土地を耕作者に均分し、収穫の余剰を国庫に納入させることとした。当初は組織も整備され、統率も取れていた。
       また一定の改革の模索もなされた。例えば、太平天国後半期には洪仁坪が『資政新篇』を発表した。その内容はブルジョア化の方向を示したもので、


       政治的には、
        ①中央集権化、
        ②郷官・郷兵による地方自治の確立、
        ③社会福祉事業の実施、
        ④広く輿論をきくこと、

       社会・経済的には、
        ①鉄道開設と汽船の建造、
        ②技術の開発作
        ③鉱業開発、
        ④幣制改革と銀行の設立、
        ⑤財政・税制の改革、
        ⑥郵便事業の確立、
        ⑦新聞事業の実施、
        ⑧水利事業の開発等の必要性を説いていた。
       このように、『資政新篇』では、鮮明に資本主義化の方向を打ち出そうとしていたし、初歩的な民主法制化の思想を打ち出そうとしていた。
       総じて、太平天国を支えたものは平等思想、封建支配からの解放の要求であり、民主化において一定の成果をあげたということができる。
       しかし、やがて旧態依然とした王朝支配の側面も持つようになり、幹部の反目もあって、組織的には内部から瓦解し始めた。
       一方制圧軍は湘軍、准軍などが次第に反乱軍を追い詰め、江蘇省などで太平軍を打ち破り、1864年6月、洪秀全が南京域内で病死すると、南京は陥落した。こうして、太平天国の乱が、終わると共に、彼らの掲げた近代化や民主法制化の思想も流産してしまうこととなる。
      (『中国現代史』中嶋峯雄篇 有斐閣選書 参照)
    太平天国の乱は中国の歴史に何をもたらしたか
        各地での反乱と平定こうした大規模な反乱の展開は、各地に影響を与え、同時期には同時多発的に様々な反乱勢力が活動を展開した。まず黄河下流域を中心とした地域では、捻軍の乱が発生し、太平天国とも時に連係しつつ、 1868 年に鎮圧きれるまで華北各地を転戦した。
       さらに内陸の地域では、イスラム教徒による「回民の乱」 が発生した。 1 つは雲南省で、もう 1 つは峡西省・甘粛省を中心とした西北地域で、 1873 年には鎮圧されたものの、さらに新彊へと飛び火し、現地ウイグル人の反乱に中央アジアのイスラム勢力も加勢して、清朝支配を一掃した。そしてコーカンド・ハン国出身のヤークープ・ベグが新彊に君臨したが、その死とともに 1878 年には清朝により平定され、反乱の時代は終わりを告げた。
       こうして太平天国の乱に始まる反乱の時代は終わりを告げたものの、清朝の弱体化は白日の下に曝され、諸外国の格好の餌食となったばかりではなく、清朝自身にとってももはや一国の猶予もなく、体制改革を迫られることとなり、この後の洋務運動へと結びついて行くことになった。
      (この項「中国百科」参照)
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    第8章 近現代史 P218「辛亥革命」

    辛亥革命と孫文
    教科書218ページには、辛亥革命についての説明を、時系列的に以下のように説明している。
    1. 光緒新政の展開
    2. 立憲派と革命派
    3. 立憲派の離反と武昌蜂起
    4. 中華民国臨時政府の成立と宣統帝退位

    しかしこれでは、辛亥革命の性格や背景などについて明確な説明を与えたことにはならない。
    辛亥革命の性格等については、むしろヴィキペディアの説明に詳しい。
      種類 民主主義革命
      目的 清朝打倒と共和制政体の確立
      対象 清朝
      結果 古代より続いた君主制が廃止され、共和制国家である中華民国が樹立された
      発生現場 中国
      指導者 孫文、黄興、宋教仁、蔡元培、趙声、章炳麟、陶成章
      関連団体 中国同盟会

    背景
      当時中国は、古代から続いた君主制のため、国の近代化が遅れ、1845年のアヘン戦争をきっかけとして、西洋列強の強盗的野望のほしいままにされ続けてきた。
      さらに、日清戦争にも敗れ、義和団事件を口実として、首都北京にも強盗的列強軍が略奪をほしいままにするに及んで国の一部の層にはこのままでは立ち行かなくなるという強い危機感が出てくるようになった。
      加えて、日清戦争の戦後処理の問題で、日清講和条約(またの名を下関条約、中国では馬関条約という)が結ばれると、そのあまりに膨大な賠償金に対する不満が中国国内に一挙に広まった。

    辛亥革命の時期
     辛亥革命がいつから始まりいつ終了したのかということについて諸説があるが、「中国現代史」(中嶋嶺雄編、有斐閣選書、1998)では、1905年に始まり1916年であると説いている。
       狭義には1911年10月10日の武昌挙兵から1912年1月1日の南京臨時政府成立リ中華民国誕生までを指すこともできよう。しかし、清朝が打倒されるための政治的・社会的諸条件の成立という点、および五・四運動への革命の継承という点からみて、1905年から1916年までとするのが妥当と述べている。
      ここでは通説に従い、1911年10月10日の武昌の武装蜂起でもって、辛亥革命の始まりとする。

    光緒新政の展開
     当時の中国では、時の最高権力者の西太后がすべての実権を握っており、光緒帝は傀儡にすぎなかった。しかし義和国事件に直面した西太后は、自らの存立に危機感を抱き、1901年全面的な立て直しに着手した。
       当時の年号から「光緒新政」と称される改革は、欧米や日本などの近代国家に範をとり、まず近代教育制度や警察制度の導入などの制度の近代化から開始された。1905 年には科挙を廃止するなど大胆な制度改革など、次々に政治制度改革が着手された。さらに1906 年に清朝は将来的な立憲政治制度の導入方針を決定した。
      そして 1908 年 8 月には、 8年後に憲法を公布して国会を開設することが最晩年の西太后 ( 同年 11 月死去 ) により決定され、以後これに従い改革を推進することが清朝の基本方針となった。この後11月には光緒帝が毒殺されている。
      【「中国百科」(P218、日本中国友好協会編)参照】

    立憲派と革命派
     中国では長い間続いた専制君主政治の為、商工業が充分に発達しておらず、また農民の間での富の蓄積も進んでいなかったなどの原因で、農民や都市の商工業者が革命の担い手になる力を蓄えていなかった。従って革命は地方の郷紳と呼ばれる実力者と留学生や科挙の及第者などのエリート知識集団が担うこととなった。これが「辛亥革命の性格」を決定する重要な要因となる。
       これら清朝の改革に対する社会指導層とりわけ漢人エリートの反応は、支持と打倒とに二分されていた 。 その中で多数派を占めたのは、立憲派と称される改革支持派であり、郷紳などの伝統的エリートを中心に地域社会の主流を形成した。対して清朝打倒を唱える革命派は、急進的知識人を 中心として寄老会などの秘密結社や留学生など青年層に勢力を広げた。
       その代表的人物が広東省出身の孫文であり、 1905 年には東京で中国同盟会を結成し革命運動家の大同団結を図った。 しかし各地で試みた武装蜂起はことごとく失敗し、同盟会員同士での内紛も絶えないなど、辛亥革命の直前までその影響力は相当に限定的なものであった。
       【注】 郷紳とは古くから中国の君主制を支える地方の支配層で、その多くは地主でありかつ地方の政治経済を左右する実力者を指す。

    立憲派の離反と武昌蜂起
       こうして清朝のもとでの政治改革という方向に向かうかに見えたが、1911年 5月に組織された最初の近代内閣が相変わらず旧態依然とした陣容であったことは、立憲派の間に失望が広がった。清朝に対する信頼は一挙に低下し、事態は革命へと突き進む。 10 月 10 日に湖北省武昌で、武装蜂起が発生した。(中国ではこの日を革命記念日として、祝日になっている。)
        革命派の工作で蜂起した清朝の新式軍隊に在地の立憲派も協力し、湖北軍政府の樹立を宣言した。 これを契機として各地で蜂起が続発し、ここに辛亥革命が勃発した。

    中華民国臨時政府の成立と宣統帝(溥儀)退位
     中華民国臨時政府が成立したものの、悪あがきを続ける清朝は袁世凱を立て、革命派を武力で鎮圧しようとした。
     袁世凱は、武力を背景に自ら清朝に取って代わり、独裁体制をしいて、自ら皇帝を名乗ったが、やがて人心に見放され失脚する。
       わずか 1カ月足らずで、大半の省が清朝からの独立を宣言した。 1912 年 1 月 1 日には、南京で中華民国臨時政府の成立が宣言され、元首たる臨時大総統には帰国した孫文が就任した。
       しかし、武昌蜂起の勃発後、清朝は最精鋭の北洋軍を南下させて湖北の革命蜂起鎮圧作戦を展開し、さらに隠棲中の袁世凱を総理大臣に起用して事態の収拾を図った。 袁は有利に鎮圧作戦を展開することで圧力をかけつつ、革命勢力側に交渉による解決を持ちかけた。 その結果、共和制の受諾と引き替えに自らの大総統就任を認めさせ、 1912 年 2 月に宣統帝の退位詔書が発せられて清朝は滅亡した。 そして 3 月に袁は孫文にかわって臨時大総統に就任し、首都も北京に移転して、中華民国は漢・満・蒙 ( モンゴル) ・回 ( ムスリム諸民族 ) ・蔵 ( チベット ) の「五族共和」の原則ととも に清朝を継承する政権として再出発した。
       しかし袁世凱は1915年には自ら皇帝を称するようになると、人心の離反が続き、ついに失脚し、清朝は完全に途絶えることとなった。

    辛亥革命の評価

     辛亥革命の評価についても、今なお学説が分かれるところであるが、近年研究も進み、従来どちらかといえば過小評価されがちであった孫文の役割の評価も強調されるようになってきている。それも単にイデオロギー的側面からだけではなく、経済的側面からも研究も進みつつある。
     その中で日本における評価もいくつかに分かれている。
    • たとえば辛亥革命は従来の王朝交代と同様なものにすぎず、茶番劇のようであるという評価
    • 変革ではあるが、そのコースは半植民地・半封建コースで、半植民地絶対主義の成立として把握しようという評価
    • そして、二千年来の王朝に終止符をうったブルジョア民主主義革命であっ たが、反帝国主義・反封建主義革命としては不十分であったという評価などである。
       以上「中国現代史」(中嶋嶺雄編、有斐閣選書、1998)参照
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    中華民国

    中華民国の誕生と地方政府
     辛亥革命の結果、1912年 1月 1日、アジア初の共和国が南京を首都として成立した 。 元号は、国号の「中華民国」を使うと定められ、12 年が 中華民国元年とされた。また中華人民共和国の建国記念日 (「国慶日」) 、は、武昌での反清蜂起が起こった 10 月 10 日である 。
     この中華民国は大きく言って三つの時期に分けられる。それは、北京政府時期 (1912 ー28 年)と南京政府時期(1928ー49年)と台湾政府時期(1949-)である。
     そしてこの北京政府時期の末の4年間が国民革命と呼ばれる時期である。この国民革命は1924年に孫文の指導する中国国民党が中国共産党との間で第1次国共合作によって成立した、両者の協力で北京の軍閥政権を倒し、中国の統一を目指す段階となってから、広い意味の中国革命は「国民革命」と言われるようになる。
    北京政府時期 (1912 _ 28 年 )
     中華民国は清朝が先進資本主義国と結んだ不平等条約を継承せざるをえなかった 。 また国内の政治的・経済的支配層も、清朝時代と変わらなかった 。 実際、初代の正式な大総統袁世凱は、清朝の延命のための政治改革 (「新政」) を進めた。
     袁世凱は近代化を目指し、また第 1 次世界大戦に参戦して戦勝国となるなど、国威の発揚に努めたが、日本の対華 21 個条要求など、さらなる侵略もこうむった 。 こうした状況のなか袁世凱は、帝政の実現を目指したが、挫折し1916年に死去した。その後、地方軍事勢力 ( 軍閥 ) が、北京の大総統の座をめぐって対立し、中国は内戦状態に入っていく 。
     こうした状況の下で、政治制度の 変革だけでは不十分だとして、「国民性」の改造を求める人々も現れた 。1915 年から本格化する「新文化運動」である 。 この運動は雑誌『新青年』を舞台として陳独秀・李大剣・魯迅ら日本留学を経験した人々や、胡適ら元アメリカ留学生によって担われた 。 さらに 1919 年 5 月 4 日には愛国運動(「五四運動」) が起こり、北京政府への批判が広がった 。この運動は、第 1 次世界大戦のパリ講和会議の結果、山東権益が、日本へ奪われ譲渡されかねないと理解されたことで始まったものであった 。
     当時、『新青年』などを通じて中国には、マルクス主義やリベラリズムなど新しい思想が持ち込まれており、前者に共鳴した陳独秀・李大剣らは、1921年に中国共産党を組織した。 他方、19年に中華革命党を中国国民党に改組した孫文らは、広東省を基盤として北方の軍閥勢力に対抗していた 。

    国民革命
     1911年の辛亥革命によって清朝の専制支配が終わったにもかかわらず、中国社会は依然として封建的な地主-小作人関係が残存し、不平等条約のもとで外国資本の支配を受け続けていた。しかも政治的には「中華民国」の実態は北京(当時は北平といわれた)の支配権をめぐって軍閥などが入り乱れて抗争し、国民不在の状態が続き、帝国主義勢力の侵出を許していた。
     第一次世界大戦後中に始まった反軍閥・反帝国主義は五・四運動となって高揚し、また新たな勢力として中国共産党が出現した。そのような動向を受けて孫文は大胆に三民主義の方針を転換、国共合作に踏み切り、真の「国民のための政府」を作り出す戦いに転換した。この段階が「国民革命」であり、「国共合作を基盤とした反帝国主義・反軍閥の民族民主革命」と定義することができる。この国民革命は、北伐という動きで実践された。

    南京政府時期 (1928ー49 年)
      国民革命 (1924ー28 年、その一部が北伐 ) の結果、首都は南京へ遷都され、 国民党の一党独裁に基づく政権が成立したが、国号は変更されなかった 。 日中戦争中には、汪精衛が各地の(傀儡政権を結集し、 1940 年に南京を首都とする対日協力政府を組織したが、多くの中国人の支持を得ることはできなかった 。
     第 2 次世界大戦の戦勝国となった蒋介石の中華民国は、 1945 年以後、国際連合安全保障理事会の常任理事国のー国となり、 「5大国」 と称された 。

    台湾政府時期 (1928ー49 年)
     49 年に共産党に軍事的に敗北した国民党が台湾に逃れ、中華民国政府も台湾へ移ることになった 。 以後、1971 年の国際連合脱退、 96年の総統民選以後も、台湾では中華民国の国号が使われており、建国記念日・元号も変更されていない。とはいえ日本政府は 72 年の日中国交正常化以後は、中国を代表する政府は中華人民共和国のみであるとの立場をとっており、台湾の中華民国との国交を断絶した 。 台湾との呼称が一般的であるゆえんである 。
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      日清戦争

      日本の帝国主義的野望牙をむく
      日本と清国の関係を約150年前に遡り時系列的に流れをつかむ

      すべての始まりは、1871年に日清修好条規が結ぼれて対等な内容で国交が樹立されたことから本格的に始まった

      手始めに台湾
      1. 1874年に台湾出兵
      2. 1879年には琉球処分を強行
      朝鮮に触手を伸ばす
        朝鮮を中国から切り離しにかかる
      1. 朝鮮をめぐり1875年に江華島事件を起こして開国を要求
      2. 1876年に日朝修好条規を締結
      3. 清国 壬午軍乱(1882年)・甲申政変(1884年)と相次いだクーデターへの介入、朝鮮の内政への関与
      4. 1894年に朝鮮で発生した東学党の乱(甲午農民戦争)・・日本にとり出兵 と清朝の影響力排除の格好の機会として利用された。ソウルに進軍した日本軍は親日政権を擁立
      本命の中国への攻略
      1. 直後に清国軍に対する攻撃を開始
      2. 1894年7月に日清戦争勃発
         陸海両面で展開された戦争は、まもなく日本側の全面的な勝利へと帰結した。
      3. 陸上では清国軍が朝鮮より退却し、追撃する日本軍が1894年10月に鴨緑江を渡って満州へと進撃
      4. 11月に遼東半島先端の旅順を占領した。そして海上では、9月の黄海海戦で東洋有数と称された北洋艦隊に勝利
      5. 1895年1月 その本拠地の山東半島威海衛を攻撃、2月陥落させた。
      6. 清朝側は講和を受け入れ、李鴻章を日本に派遣して伊藤博文らと下関で交渉開始させた。
      7. 1895年4月に下関条約(講和条約)
      下関条約と東アジア情勢の転換
       こうしては、近代東アジア史の重大な転換点となった。伝統的な中国を中心とした地域秩序は完全に解体し、かわって日本が優位に立ったものの、こうした状況は中国そして朝鮮に対する欧米列強の進出競争をもたらした。そうした結果、アジア全域で植民地のほしいがままに置かれることとなる。

      中国自身の影響
       歴史的な周辺諸国に対する宗属関係は完全に撤廃された。中国のアジアにおける地位は劇的な変化を遂げる。また、これにより、中国は列強帝国主義国から植民地的支配を受け、長きにわたって外国の蚕食を受けることとなり、中国の近代化は著しく遅れた。また国内的には、中国人にとり「中体西用」の限界牲を強〈認識させ、かわって日本をモデルに全面的な近代化を推進すべきであるとする変法論を台頭させることとなった。かくして、アヘン戦争以来50年の清国の国際的地位の失墜はいよいよ決定的なものとなり、これから先、清朝が倒れ、中華人民共和国が建設され、独立を達成するまでの更なる50年間いばらの道を歩むこととなった。さらに経済的には、その負の遺産を払拭するまでの間、さらに50年の月日を要することとなる。

        日本にとって日清戦争
         日本側にとってはまたとない懸案解決の機会となったこの下関条約で、まず清朝に対しては朝鮮の「完全無欠なる独立自主」を認めさせ、後に近代対等外交として両国の国交が再開されたことで、さらに欧米各国と同様に協定関税制度や領事裁判制度などのいわゆる不平等条約の適用を認めさせ、日本優位の不平等関係へと変わった。さらに台湾を日本に割譲することを承認した。これ以後50年間にわたり日本の領土として植民地支配を受けることとなった。こうして、日本は清国からの膨大な賠償金をてこに更なる近代化を達成させ、地理的な条件も幸いして、中国の利権をほしいがままに手にしていくことになる。この成功体験?が、日本に慢心を植え付け中国は日本の生命線とまで位置づけ、やがて日中戦争、第2次世界大戦まで突入することの誘因となってくる。
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          第8章 近現代史 P226 抗日戦争

          日本人にとって、7月7日は七夕という風情のある祭りの日であるが、中国の国民にとってはこの日に起こった盧溝橋事件に端を発し、日本軍により中国国内に全面的に蹂躙されるきっかけとなった「屈辱の日」である。
           抗日戦争とは、盧溝橋事件に端を発し、1945年日本の無条件降伏に至るまで戦われた「日中全面戦争」のことである。日本では1931年から45年までの15年間を称して、日中15年戦争と呼ぶことがある。



          全面戦争へ拡大の背景
          教科書では、1931年柳条溝事件から満州事変をへて、日中全面戦争に拡大して行った背景を以下に説明している。 
          • 昭和恐慌が、1929年秋にアメリカ合衆国で起き、世界中を巻き込んでいいった。1930年(昭和5年)から翌1931年(昭和6年)にかけて危機的な状況に陥った日本経済の活路を中国に求め、中国に強く進出するようになった。
          • 満蒙は「日本の生命線」という主張が日本国内で主力になっていった。
          • 満蒙を維持するため、満蒙における反日ゲリラを抑えるためには、その基地と考えられた華北への侵出が不可欠と考えられた。
          • 日本人の意識の中に中国人蔑視の思想が植えつけられ、中国人の人権、民族意識の軽視や無視してもかまわないという風潮が強くなった
          • 加えて、「一撃」で中国を降伏させることができるという妄信により歯止めが利かなくなった。
          日中15年戦争開始から全面戦争まで
           1931年9月18日、関東軍は南満州鉄道を爆破し(柳条溝事件、中国では九一八事件という)、これを反日テロと強弁して東北地方を軍事占領し、それを隠蔽し固定化するために満州国を樹立した。
           日本は満州だけでは資源が不足するという思惑に基づき華北分離工作を本格化させた。(1935年)
           これに対し、中国国内では抗日の機運が強まり、拡大した日本軍の補給路を断つという作戦が活発化した。


            日中戦争

            盧溝橋事件発生 1937年7月7日 北京郊外の盧溝橋付近で軍事演習をしていた日本軍に発砲事件があり、小競り合いが発生した。(盧溝橋事件)これを期に日本は中国との全面戦争に突入した。
             日本は1937年12月、中華民国の首都南京を占領した。この占領の過程で南京大虐殺が発生した。
              この盧溝橋事件に関しては、日本軍が平和裏に軍事演習をしていたのに、中国軍が発砲をしたので、中国側の仕掛けた事件だという説が展開されているが、そもそも中国国内の奥深く軍事演習をすること自体が、「平和裏」といえるものではないのではなかろうか。

            日中全面戦争から太平洋戦争
             当初、日本政府は「現地解決・不拡大」を掲げたが、なし崩し的に全面戦争へと突入しいった。日本軍は 1937年12月に中国の首都・南京を占領した (「南京大虐殺」) が、中国は重慶を臨時首都として抗戦を継続し、戦線は膠着し泥沼化した。 こうした状況の打開策として重慶爆撃が行なわれた。この攻撃は世界で初めて計画的・継続的に行なわれた都市への無差別爆撃 ( 戦略爆撃 ) である。この爆撃で重慶は大きな打撃を受けたが、中国側の抗戦の意欲は衰えず、困難も乗り切った。

            太平洋戦争への戦争の性質の変化
             1941年末に日本が英米との戦争に踏み切ったことで、中国は翌年の連合国共同宣言に名を連ね、米国を中心とする「民主主義陣営」の一員となった。 このことで、この日中全面戦争という闘いの性質が変化し、二国間という戦争が、連合国と枢機国、民主主義陣営と全体主義国、局地戦からアジア太平洋全域の戦争に変化した。

            太平洋戦争の終結
             1945年8月の抗日戦争の勝利は、連合国の一員として第 2次世界大戦に勝利したことを意味し、国民党の指導する中国は「5大国」の1つに数 えられるにいたった。他方、中国共産党も抗日戦争を徹底して戦うことで、世論の支持を得て党勢を拡大した。とはいえ中国は、日本の侵略によって膨大な人的・物的な損害をこうむっただけでなく、「南京大虐殺」に象徴されるように、生存者も心に大きな傷を負うことになった。
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            第8章 近現代史

            中華人民共和国と毛沢東
             中国革命の勝利がアジアにおける世界史の画期であったことに加えて、中華人民共和国の建国後の歩みは、現代史におけるもっとも刺激的なドラマでもあった。
            •  1949年10月1日、中国革命を支えた広範な民族統一戦線を基盤に、毛沢東を主席とする中央人民政府を樹立し、暫定的な行政機構としての政務院を形成した中国は、人民民主主義独裁の国家として誕生したのであった。中華人民共和国の成立を宣言した毛沢東は、日中戦争期に党内の権力を掌握し、亡くなるまで強力なリーダーシップを発揮しつづけた。 人民共和国建国後の約 30 年聞は、毛の情勢認識と判断が重要な政策方針を左右した「毛沢東時代」だった。
            •  しかしそれからの歩みは決して平坦なものではなく、内戦で荒廃した国土や生産を立て直す必要に迫られていたにも拘らず、朝鮮戦争、ソ連との軋轢、内政の失敗、冷戦時代、封じ込め政策、ベトナム戦争、中印紛争、文化大革命などなどの苦難の道を歩かなければならなかった。
            •  その中にはもちろん毛沢東の失敗もあるが、冷戦、封じ込め政策、スターリンの横やり、ソ連との抗争などなど中国にとっては好ましくない国際関係に悩まされる事柄の連続であった。
            •  1981 年に採択された「歴史決議」では、毛は文革において重大な誤りを犯したが、なお功績が上回っているという評価を下している。しかし、暴力を伴う大規模な政治運動に民衆を動員することで、中心的な政策を遂行していったことが、毛沢東の政治手法であった。このような過ちは大躍進以後の一時期にとどまらず、彼が党内でイニシアティブをとってから一貫して続けられており、その誤りは彼が死ぬまで克服されることはなかった。しかも悪いことにその悪しき母斑は、今なお克服されてはいない。

             我々が中国を見る場合得てして今日の文化水準やレベルでそれが当たり前のこととして判断しがちであるが、まさしく辛亥革命以来の100年の歴史を踏まえて、中国を見なければ、現在の中国ばかりか将来中国がどう変化して行くのかを見ることはできない。その上で好き嫌いの感情論はさておいて、大局的にかつ中国を他山の石として冷静に見て付き合っていかなければならない。
             なぜなら中国と日本は隣人同士という関係は変えようもなく、過去3000年間基本的には友好関係を結んできたわけであり、今後もその関係を続けることは我々が生きていく上で不可欠なことであると考えるからだ。
            「新民主主義」から「過渡期の総路線」 へ
             このような中国にとって、まず必要な国家的・社会的課題は、革命と内戦で破壊され疲弊した国民経済を復興させることであった。こうして中国は国営経済を指導的ファクターにしながら、「公私兼顧・労資両利」の原則にもとづき、私的資本主義経済・国家資本主義経済を調整しつつ、国の再建にのりだしていった。ここに中国は、いわゆる新民主主義国家(人民民主主義独裁の国家といってもよい ) として社会主義改造に着手していく体制を形成しはじめたのであった。
             対外的には中華人民共和国成立後、いちはやくソ連、東欧の社会主義諸国やインドなどのアジアの国々が、そして翌五〇年になるとイギリスも中国に承認を与え、新生中国は世界に向かってその第一歩を踏み出していった。
             しかし、朝鮮戦争が勃発し、極東における冷戦が本格化する中で、その方針は転換していった。

            •  1953 年、毛は「過渡期の総路線」を提起し、社会主義への 早期移行を主張した。その過程では毛の強引な手法が発揮され、急激な変革は各方面で多くの矛盾や問題を発生させた。
            • 同年には第1次5カ年計画が始まり、
            • 1954 年には全国人民代表大会 ( 国会 ) の発足と社会主義の原則を採用する憲法の公布、
            • 1956 年には農商工業の「社会主義改造」をほぼ完了するなど、急速に「社会主義体制」を構築していった。

              もとより、社会主義兄弟国のソ連との友好関係の形成が当時の最大の対外目標であり、ソ連の援助のもとに新国家の工業建設に着手しようとしたのであった。しかし、スターリン体制下のソ連が中国に与えた援助は中国側の期待を大きく下まわり、このときの中ソ交渉もスターリンの冷淡な対応のもとに難航を重ねたことが今日明らかになっている。しかも、建k国まもない中国は、一九五〇年六月、朝鮮戦争の勃発に直面し、同年一〇月には中国人民志願軍を朝鮮に派遣することになり、中国はふたたび臨戦体制をよぎなくされ、ここに全国的な抗米援朝運動が展開されたのである。周知のように朝鮮戦争は、米中対決というアジアの冷戦構造の基本パターンを形成することになったが、この間、50年10月、チベットも解放され、台湾本島と彰湖諸島および金門島、馬祖島を除く中華人民共和国の版図がここに基本的に確定した。

            中国型社会主義の模索と挫折
              1956 年 4 月、毛は「十大関係論」で諸矛盾を緩和するよう各方面のバラ ンス改善を主張したが、それはまた、同年 2 月のスターリン批判を受け挫折(中国型社会主義を模索する一歩でもあった。)
               1957 年末頃から生じた中ソ聞の亀裂は 次第に深まり、 中国は自力での核武装をめざし、重工業化に傾斜した経済建設を加速させた 。 
              1958 年から国力無視の大増産をめざす大躍進と人民公社化が 強行されたが、失敗し、一時的に調整政策を採用せざるを得なかったが、国際的な緊張の高まりから、
              1959 年、調整政策を継続しようとした国家主席に就任した劉少奇を文化大革命を発動して失脚させた。

            アメリカとの関係改善へ
              文革は米・ソ 2 大国を敵とする極度の緊張状態の中で発動されたが、基本は「反ソ」の選択であり、ソ連との対立をいっそう深めた。 ソ連との武力衝突が発生するなか、中国は対米接近を図り、
            •  1971 年に米国との関係改善を、
            •  1972 年に日本との国交正常化を達成した。
            これ以降、中国を取り巻〈国際情勢は徐々に緩和し、
            • 1978 年からの改革開放路線を準備することになった。
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            朝鮮戦争

            朝鮮戦争の勃発と冷戦の拡大そして国内戦時体制の強化と強硬路線の
             1950年6月25日、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国、1948年建国)が南北朝鮮の統ーを目指して発動した戦争である。朝鮮半島における内戦が、米国の軍事介入とそれに脅威を感じた中国の参戦によって拡大し、米中両国軍が激突した。
             開戦当初、北朝鮮軍は優位に戦況を進めたが、押しつ押し戻されつの後、1951年半ば以降、戦線は38度線付近で膠着した。1953年7月にようやく休戦協定が結ばれた。
             同戦争を契機として米中対立を軸とする東アジアの冷戦構造ができあがった。1970年代初めに米中が関係を改善するまでの約20年間、中国は時に核の脅威にさらされ、しかもアジア、東南アジアの軍事包囲網に包囲されるなど、冷戦下の厳しい国際情勢が中国に戦争に備えた強権的体制を選択させることになった。

             戦時体制の強化
            • 参戦と同時に「抗米援朝」運動を全国的に展開し、国民にナショナリズムを高揚させ、戦争への支持・支援を得ようとした。上からの動員という性格が強かった「抗米援朝」運動は約1年で下火となった。
            • 代わって参戦と同時に急進化した「反革命」鎮圧運動や土地改革といった階級闘争的な大衆運動を挺子として、政府は社会の統合を進めていった。「反革命」鎮圧運動は国民党系特務や残存分子を摘発するもので、大衆を動員して徹底的な残党狩りを行なった。建国後の3年間で200万人以上が処罰されたという。
            • 1951 年末から政府職員の汚職や官僚主義および資本家の脱税や贈賄などの不正行為(「三害五毒」)を摘発する「三反五反」運動が展開された。運動が大規模化した背景には、参戦後の経済統制強化とそれに伴う公私間の軋轢があった。
            • こうして、毛沢東は社会主義への早期移行を提起し(「過渡期の総路線」)、新民主主義路線は放棄されるにいたった。
            戦局の進行と冷戦の拡大
             第2次大戦後に始まった東西冷戦はヨーロッパが主な舞台であり、極東における冷戦はそれほど深刻ではなかったが、同戦争を契機として米中対立を軸とする東アジアの冷戦構造ができあがった。1970年代初めに米中が関係を改善するまでの約20年間、中国は時に核の脅威にさらされ、米国と軍事同盟を結んだ日本・韓国・台湾・東南アジア諸国に包囲され、さらには西側諸国から経済封鎖(チンコム)を受け続けることになった。こうしたアメリカを中軸とする世界支配体制が中国を追い詰め、中国に戦争に備えた強権的体制を選択させることになったのである。

            中国国内の動向
             朝鮮戦争は中国は建国後まだ間もない時期にあり、しかも長い間の内戦を経て、経済的にはたいへん疲弊した状態であり、国内には軍閥などの影響が完全には払しょくされていない封建遺制が国民の間に染み付いた中にあって、世界を敵に回して冷戦を戦うことがいかに大変なことであったか想像に難くない。我々日本人はその国を泥靴で蹂躙したこともいとも簡単に忘れ、共産党独裁を非難する。そのことだけを取り出せば、賛否両論はあるだろうが、忘れてはならないのは、やはり歴史認識である。
             以上のことを踏まえたうえで、「抗米援朝」運動、、「反革命」鎮圧運動や土地改革といった階級闘争的な大衆運動を挺子として、政府は社会の統合を進めていったことの功罪、総括をきっちりすべきだろう。「反革命」鎮圧運動は国民党系特務や残存分子を摘発するもので、大衆を動員して徹底的な残党狩りを行なった。建国後の3年間で200万人以上が処罰されたという。
            1951 年末から政府職員の汚職や官僚主義および資本家の脱税や贈賄などの不正行為(「三害五毒」)を摘発する「三反五反」運動が展開された。運動が大規模化した背景には、参戦後の経済統制強化とそれに伴う公私間の軋轢があった。 こうして、毛沢東は社会主義への早期移行を提起し(「過渡期の総路線」)、新民主主義路線は放棄されるにいたった。

            戦争が後に残したもの
             影響は多方面に及んだが、経済回復を促進し、ソ連との関係強化および中国の国際的地位の向上につながったとも言われる。一方、台湾海峡に緊張をもたらし、台湾統ーという難題を残すことにもなった。得たものは貴重だが、失ったものもまた大きい。
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            大躍進と人民公社


            毛沢東路線の悲惨な結末・・大躍進と人民公社
            「大躍進」は1958年から60年にかけて行なわれた大増産運動である。
             主に人海戦術によってウルトラ高度経済成長を達成しようとした。1957年11月、モスクワを訪問していた毛沢東は「15年で米国を追い越す」というソ連に対抗し、「中国は15年でイギリスを追い越す」と宣言した。
             この宣言に基づき、1958年5月の第8回党大会第2回会議において、大躍進運動・人民公社化運動が正式に宣言され、「国力を無視した高い目標が各方面で立てられ、下級では超過達成を上級に虚報し、さらなる目標の引き上げが行なわれるという悪循環が国を挙げて各方面で展開され、無謀な計画と過大な投入や建設の結果、経済は破綻し、数千万人の餓死者を出すにいたった。
             この人民公社は単なる生産組織ではなく、行政と一体化し、民兵組織も有する農業-工業・商業・教育・軍事のすべてを担う社会の基本単位とみなされた。
             また、製鉄運動と水利建設の分野では、 とりわけ重視された鉄鋼生産は、目標設定が過度に引き上げられ、それを補うため、「土法高炉」と呼ばれる伝統的技術に基づく、全国民による製鉄運動を展開した。できた鉄は品質が悪〈、エネノレギ-と労力の無駄遣いに終わった。
             食糧増産では、非科学的な農法に加え、誤った労働の分配のため深刻な凶作を引き起こした。しかも虚偽の報告のため農村から大量の食糧が吸い上げられた。その結果、全土で想像を絶する餓死者が続出する惨状を招いた。

             これに関しての極左是正は1959年夏に江西省で聞かれた廬山会議で討論された。しかし、大躍進の極左的方針がその後も継続し、被害を拡大することとなった。経済立て直しのため、人民公社の規模縮小や各農家が自由に経営できる自留地と自由市場の復活、基本建設投資の削減や工業企業のリストラなどといった部分的な「調整政策」は1960年にずれ込むことになる。
            この後、やはり毛沢東の指導する「文化大革命」の勃発によって、中国はますます混迷の度を加えることとなる。
             
            人民公社化運動
             1957年後半より「反右派」闘争の影響の下、人海戦術による大規模水利建設が行なわれていた。その際、多くの人間を組織して効率的に動かすことが必要になり、従来の高級合作社(200 - 300戸程度)を合併して数千戸規模の人民公社を組織する動きが現れた。1958年8月、政府が公社の組織化を呼びかけると、9月には98%強の農家が加入した。これが人民公社化運動である。

            製鉄運動と水利建設
             鉄鋼生産では、当初620万トンだった目標が1070万トンにまで引き上げられ、近代的な鉄鋼施設だけでは目標達成が難しくなった。このように達成不可能な目標の設定の実現のために、うそを嘘で塗り固める政策が行われ、傷はますます深く大きくなっていった。
             食糧増産では、水利建設に多くの農民が動員されたり、「深耕密植」などが奨励された。こうした非科学的な農法に加え、水利や製鉄に労働力がつぎ込まれたために深刻な凶作となった。しかし大豊作であると虚偽の報告を行なったため、農村から大量の食糧が吸い上げられた。その結果、全土で2000万から3000万人もの餓死者が続出する惨状を招いた。

            調整会議
             1959年夏に江西省で聞かれた廬山会議では、もともと極左是正を討論 していた。しかし、国防部長の彭徳懐が大躍進の問題点を指摘したことが毛の逆鱗に触れ、「反右傾Jに方向転換した。毛の彭徳懐に対する異常な反応は、ソ連との関係を疑ったからだと言われている。彭は同年5月からソ連・東欧を訪問の直後にソ連か ら国防新技術協定(核兵器の技術提供を内容とするもので1957年に調印)の破棄が通告された。彭の大躍進批判はソ連と通じたものとみなされたのであろう。 1960年後半から、経済立て直しのため、人民公社の規模縮小や各農家が自由に経営できる自留地と自由市場の復活、基本建設投資の削減や工業企業のリストラなどといった「調整政策」が行なわれた。
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              文化大革命

              文化大革命
               文化大革命 ( プロレタリア文化大革命、略称は文革 ) は 1966 年に毛沢東が発動した政治運動であり、中国の政治・経済・文化等あらゆる方面に深刻な混乱と停滞をもたらした。その背景には、中国が米ソ2 超大国と対立するという緊迫した国際情勢があり、また それとリンクした毛の国内外の情勢に対する過剰な危機感があった。
               「中国共産党簡史」によると、毛沢東の発動したこの”大革命”の出発点は資本主義復活を防止して、党の純潔性を維持し中国自身の社会主義建設の道を追及することであった。
               ただ彼は党と国家政治状況に対して既に非常に大きな間違った固定概念に囚われていた。
              発動の背景
              • キューバ危機の際、ソ連が当事国の了解を得ぬまま勝手にアメリカと手を打ったことに対する不信感が根強くあった。中国もソ連修正主義の手によって、アメリカと手を打たれるのではないかという恐れを抱いていた。
              • 中国が米ソ2 超大国と対立するという緊迫した国際情勢があり、また それとリンクした毛の国内外の情勢に対する過剰な危機感があった。
              • たとえば、最悪の場合重要施設は内陸へ移して守るべく、1964 年以降、西南地域の奥地に工場を移転・新設する「三線建設」が推進された。
              • ソ連との国境紛争の危機も高まり、長い国境を有するソ連への危機感が次第に増大していった。
              • 国内においては、自らの数々の政策の失敗に対する国民の批判の高まりもあり、毛は焦りを感じていた。
              • なにより、毛には中国人民と中国共産党に対する根強い不信感があり、ある意味強い強迫観念にとらわれていた。
              文革の過程
              1. 前期 :
                  運動はまず、ブルジョア的思想・文化に対する闘争として開始された 。 1965年11月、新編歴史劇「海瑞罷官」に対する批判が文革の口火となった。 1966年 5月、康生・陳伯達・張春橋、そして毛沢東の妻・江青 ( のちの「四人組」 ) を中心メンバーとする中央文革小組が成立し、文革が本格的に開始する。
                 毛は、思想的にも深いものはない自己顕示欲が強いだけのエキセントリックな妻とその側近を抜擢し、国防部長の林彪を味方につけた 。
                さらに、毛を熱狂的に信奉する若者たちからなる紅衛兵を煽って、政府や党機構を破壊させた。
                 党が結党以来、革命闘争や抗日戦争の中で累々と積み上げてきた人民との信頼関係はずたずたにされ、よき風習も紅衛兵の泥靴で踏みにじられた。私は毛沢東の最大の罪悪はここにあると思っている。
                 そしてここにこそいまなお払拭できていない中国の民主主義の後進性があると考えている。
                この期間を通じ、林彪は力を伸ばし、1969年の第九回党大会では毛の後継者に指名された。

              2. 中期
                 毛の文革の発動の狙いは自らの政策の失敗に対する国民の批判の目をそらすことにあり、「反ソ」を煽り立てることにより、中ソ間の緊張はいよいよ高まった。対米接近が模索されるようになったが、それを主導したのは周恩来ら実務官僚グループであり、林彪グループは孤立し、失脚していった ( 林彪事件 ) 。

              3. 後期
                  1971 年のキッシンジャー訪中、 1972 年 2月のニクソン訪中で米中の関係改善が実現し、日本とも同年 9月、田中角栄首相が訪中し、国交を正常化した。
                こうして国際緊張の緩和が進み、これを背景に国内では 周恩来と復活した邓小平らが秩序を回復し、経済再建措置をとろうとした。 四人組は、1976年 9月毛沢東が亡くなり、後ろ盾がなくなるとまもなく失脚し、文革はようやく終結した 。

              結び この教科書では、文化大革命の要因を以下のように見ている。文化大革命そのものについては、それでいいのかもしれないが、しかしもう一歩突っ込んだ分析がほしいところである。なぜなら文革をどう見るかが、現在の中国を如何に判断するかにかかわってくると思うからだ。
               「文革は毛沢東が起こした権力闘争とみなされることが多いが、それだけにとどまらない要素が複雑に絡んでいた 。 中国全土が 10 年にもわたり 動乱状態に陥ったのは、建国以来の社会主義建設が各方面において矛盾を蓄積していたからであり、民衆の不満が一気に爆発したのも一因であった 。」

              中国共産党の「党史研究室」というところが、発行した「中国共产党简史」という本の中で、文革の総括に触れている。
                文化大革命については、全面的かつ長時間の左傾の誤りは毛沢東の主要な責任に負うところが大きい。ただしこの誤りは結局は中国の社会主義への道の探索中に犯した誤りである。毛沢東はいつもわれわれ党内と国家生活の中に存在していた欠点に注意していた。しかし晩年、多くの問題についてはその上正確な分析ができなかった。しかもさらに文化大革命の中で、敵とわれわれの是非が混沌としていた。・・彼は終始自己の理論と実践がマルクス主義的であると認識していた。強固なプロレタリア階級の独裁の必要欠くべからざるところであると考えており、これが彼の悲劇の所在である。毛沢東は全ての局面でも文化大革命的な誤りを堅持した。但し制止と糾正もまた誤りを犯した。

               10年にも及ぶ全国家レベルで犯した誤りの総括にしてはあまりにもお粗末ではないだろうか。毛沢東の個人的な誤りもさることながら、なぜその誤りを党として是正できなかったのか。党としての構造的欠陥を持っていたのではないのか。毛沢東をあそこまで祭り上げたのは誰なのか。長年にわたる失政にも拘らず、その真の原因を曖昧にし、個人的崇拝を強めた結果ではないのか。中国は歴史から学べと日本によく言う。しかし自らはどうなのか?襟を正すべきではないのか。誤りを認めることは本当に勇気のいることである。そのことにより予期せぬ事態を生むかもしれないことはよく分かる。だからこそここまで事が大きくなる前に、ここの事象が現れた時点で、真摯に総括し、誤りを是正することが不可欠だと思う。むかし、中国軍は人民の財産は鉛筆一本取らないという気高きモラルを具えていたと聞いている。それが今ではどこに行ったのだろう。
               日本ももちろん過去に犯した過ちは率直に謝るべきである。口先だけではなく具体的行動に示すべきである。日中両国の真摯な態度が今何より求められるべきではないのだろうか。
               今現時点で何をなすべきか? それは、直ちに過去の総括を真摯にし、今の政策と姿勢を少しずつ、是正して行くことではないだろうか。まずは一番分かりやすいのは、汚職、腐敗構造を改めることだろう。そうすることによって、中国の権威は高まり、アジアばかりではなく世界中の人々からもろ手を挙げて歓待されるようになるだろう。今の中国はそのように方向転換しても、国家が揺らぐような柔な状態にはないだろう。
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