3-8.09 国民政府と蒋介石

国民政府と蒋介石の役割

国民政府の変遷
 辛亥革命によって1912年正月に孫文を臨時大総統とし南京を首都に中華民国が成立したものの、袁世凱がなおも実権をにぎっており、しかも彼は清朝の復活を志向しつつ1913年には、北京で正式な中華民国初代大総統に就任した。その後、彼の死後も北部では張作霖などの軍閥政権(北京政府)が力を握っており、政治的には極めて不安定な状況が続いていた。

 それに対して孫文(中華革命党)は、1917年に広東軍政府を組織して軍事的に抵抗したが、1919年の五・四運動の後、孫文は中華革命党を中国国民党に組み替えて、新たな中華民国の政治勢力を作り、「国民革命」を実現しようとした。この時蔣介石は軍人としてこの中国国民党に加わっている。以降蒋介石は中国国民党と共に一生関わっていくことになる。

 一方、1921年にはマルクス主義政党の中国共産党が成立し、中国国民党と中国共産党の両者はコミンテルンの働きかけもあって北京軍閥政府と帝国主義の侵略に対抗しようとして1924年に第1次国共合作を実現させた。ここから始まる軍閥政府を倒し中国統一をめざす運動を、国民政府は国民革命と意義づけている。

中国国民党はそれ以降、国共合作、内戦、日本帝国主義の駆逐、内戦を経て以下の様な経過をたどる。そして蒋介石は一貫して、中国国民党の中で権力を握り、アジアにおける反共の砦としての役割を担わされた。中国国民党は冷戦の終結とともにその経済力を生かし、国際経済の中でも大きな役割を担い、後に普通選挙の洗礼を経て、台湾の政治を後続の政党に委ねることとなる。
  1. 広東国民政府(1925~27年)
  2. 武漢国民政府(1927年2月~7月)
  3. 南京国民政府(1927~37年)
  4. 国共内戦から第2次国共合作へ
  5. 重慶国民政府(1937~46年8月)
  6. 中華民国政府と国共内戦の再開(1946~49年)
  7. 中華民国政府の台湾統治(1949年~)
広州国民政府(1925~27年)
     孫文は1925年3月に死去したが、上海の五・三○運動に触発され、反帝国主義、民族主義の運動が高まった。
     中国国民党は広東一帯の地方軍閥軍を掃討し、7月に広州で「広州国民政府」(広東国民政府とも言う)を樹立した。主席は汪兆銘(汪精衛)。1926年には広州国民政府は、蔣介石を司令官として北京軍閥政府を打倒するための北伐を開始した。

武漢国民政府(1927年2月~7月)
     翌1927年2月、広東国民政府は本拠地を北上させて武漢に移し、それからは「武漢国民政府」と言われるようになる。その内部には孫文の意志どおり国共合作を維持しようとする左派の汪兆銘と、共産党の排除をねらう蔣介石ら右派の対立があった。蔣介石の背後には民族資本があり、ロシア革命の影響や五・三〇運動のような労働者の運動が民族資本に向けられることを警戒した。
南京国民政府(1927~37年)
     1927年4月、蔣介石は上海でクーデターにより共産党弾圧を開始、「南京国民政府」を樹立した。これが蒋介石のターニングポイントとなる。7月に武漢政府を南京国民政府に統合。1928年にには、北京の軍閥政府を倒し、北伐を完了させ、さらに同年末には満州軍閥の張学良が国民政府への帰属を表明したため、国民政府の統治領域は満州に及んだ。これにより国民政府による中国統一が達成された。しかし1930年代は南京国民政府と共産党勢力の国共内戦となるとともに、日本の大陸侵攻が強まってくる。
国共内戦から第2次国共合作へ
     そのような中で1931年の満州事変が起こったが、南京国民政府は日本軍に対する抵抗を二の次とする姿勢をとった。一方共産党は31年に瑞金で独自政権を発足させ、1934年、国民政府軍の攻勢を受けて長征を開始し、その途中の遵義会議で毛沢東の指導権を確立させ、1935年には延安に入り、抗日戦の根拠として、反日統一戦線を呼びかけた。一方1934年、蒋介石は、中国の経済的統一に乗り出し、1935年に通貨統一を断行して、銀の流通を禁止して法定紙幣(法幣)のみを流通させる管理通貨制度を導入した。この政策は、紙幣発行権を持つ政府系銀行は浙江財閥である蔣介石の一族に握られており、蒋介石政権の強大化を目指すものであった。こうして国内では、国共合作の復活を望む声が強くなっていた。
     1936年、満州軍閥の張学良が、蒋介石を監禁して、国共合作を迫るという西安事件が起こり、それを機に、翌1937年には日中戦争が始まると、第2次国共合作が成立した。張学良はこの一件でその後の彼の評価を不動のものとした。彼は現在でも、中国の英雄である。第2次国共合作は第1次と違い共産党員が国民党に加盟するというのではなく、二つの党はそれぞれ独自の党として活動しながら、日本の侵略に対しては協力して闘うという形態をとった。
重慶国民政府(1937~46年8月)
     1937年、日中戦争が勃発、南京国民政府は首都南京を日本軍に攻略されたたため、武漢に移り、さらに重慶に移動した(重慶国民政府)。日本軍は「国民政府を相手とせず」と表明し、汪兆銘を担いで別に「南京国民政府」(中国では偽政府とされている)を作らせ交渉相手とした。しかし国際的には承認されず、重慶国民政府は連合国の一員として重視され、蒋介石はカイロ会談など煉獄国首脳会談に参加し、ポツダム宣言にも署名した。この間、1943年までに不平等条約の撤廃(中国)が行われた。蒋介石の国民政府は国際連合の設立にも加わり、安全保障理事会の常任理事国になった。日本の敗北によって汪兆銘政府は消滅した。汪兆銘は現在では、売国奴という評価に貶められ、その住家は見る影もない。
中華民国政府と国共内戦の再開(1946~49年)
     1945年8月に日本が敗北、46年5月には、国民政府は南京で中華民国設立を表明し、翌47年には中華民国憲法を制定、翌年には蔣介石を正式に中華民国総統に選出したが、しかし、延安を拠点に既に確固たる勢力となった中国共産党は、それに従わなかった。1945年8月末から中国国民党蔣介石は重慶での中国共産党毛沢東との会談に応じ、10月に合作合意に達し妥協点に達したものの、イデオロギーの対立から決裂し国共内戦に突入した。
中華民国政府の台湾統治(1949年~)
     国共内戦は共産党の勝利となり、1949年10月、「中華人民共和国」が樹立された。1949年12月に「中華民国政府」は台湾に撤退し、1950年から現在に至るまで、台湾を統治している。蔣介石国民党政権の「中華民国」は国際連合の議席も継承した。
     国民党政権は本土出身者によって固められ、台湾人との対立の問題もあったが、東西冷戦のなか、アメリカの援助を受け、輸出産業を発展させていった。
     しかし、1971年にはアメリカが中華人民共和国を承認したため、台湾の「中華民国」は国連の議席を失い、諸外国との外交関係も絶たれた。蔣介石は1975年に死去、78年に息子の蒋経国が総統となり、国民党以外の政党を認めるなど改革を進めた。1988年には初めて台湾出身者である李登輝政権が成立、大胆な民主化を進めた。 
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