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清朝

清朝の時代
 清は中国内地を統一すると、 5 代雍正帝と 6 代乾隆帝の時代に全盛期を 迎えた。では、清の政治体制・社会経済・文化はどのようなものだったのであろうか。
清は歴史的に如何なる存在だったのか
 漢民族以外の民族が内地に入り込み、漢民族を支配することになった王朝のことを「征服王朝」と呼ぶが、清朝も中国の最後の征服王朝となった。漢という名称が初めて使われたのは、劉邦が「漢王」に任じられたのが、最初だと考えられる。少なくとも、漢王朝から五代十国までは、漢民族による王朝が続いていた。それが五代十国をへて、元の時代そして漢民族の中興ともいえる明王朝の後、女真族による征服王朝となった。
 ということは清王朝はそれまでの漢民族による支配の時代から異民族の支配の時代を経て、民族統一国家への橋渡しということになるのではないだろうか。ある意味では当然の帰結ということかもしれないが、中国のような多民族国家の支配管理は単一民族の支配ということがそもそも難しいともいえる。清王朝はその橋渡しという使命を帯びていたような気がする。
 同時に、長い間続いた封建主義社会から、民主主義国家への橋渡しともいえる。

清の政治体制
 清は、明の制度を良くも悪くもほぼ継承して、儒学を振興し、科挙を実施したが、その一方で、緑営 ( 漢人の軍隊 ) 以外に八旗 ( 満州・モンゴル漢で構成 ) を要地に駐屯させ、中央官庁の要職の定員を満・漢同数 ( 満漢併用 ) にするなど、分割支配を考慮した独自の制度も設けた。 また、雍正帝の時代には、臣下が派閥を作ることが禁止され ( 朋党の禁 ) 、軍機処 ( 皇帝直属の諮問機関 ) が設置されるなど、皇帝の独裁的な権力の強化が図られた。また、太祖洪武帝が厳しく禁じた宦官を登用することも、永楽帝の時にその禁を破ってしまってからは、宦官がある程度影響力を発揮することになるが、清朝では明朝の時ほど、宦官がのさばることは避けることができたようである。清朝は女真族という遊牧民族の出自があるため漢民族の文化にある種の劣等感を持っていたこともあり、その分余計に、そしてまた康熙帝、雍正帝、乾隆帝という3人の名君がいずれも優れた文人であったことも幸いし、中国の伝統文化を尊重し、知識人を優遇して『四庫全書』(古今の図書を集めた叢書) 『康照字典』(字書)『古今図書集成』( 百科事典 ) などの編纂事業を行なう一方で、文字の獄・禁書 により反清的な言論の取り締まりも行ない、薙髪令を出して漢人男性にも満州族の髪型である締髪を強制した ( 長髪にする行為は反清を意味した ) 。 また、清は朝鮮・琉球・ベトナム (阮朝) と朝貢関係を結んでいた。特に初代康熙帝は天文学にすら精通していたとのことである。
 また清は明の一条鞭法をそのまま引き継ぎ、賦役の平均化と農民の負担軽減を図ったことから生産の積極性を引き出し、社会経済発展に供した。

清の社会経済
 清の建国の時には世界はすでに、大航海時代に入っており、イギリス、フランスなどが相次いでキリスト教を前面に押し出しつつ、交易を求めてきたにも拘わらず、「典礼」問題を契機として、キリスト教の布教は禁止してしまった。こうして一種の鎖国状態になったが、台湾領有後、清朝は海禁政策を停止したため、再び海上貿易が盛んになり、生糸・陶磁器・茶などが輸出され、銀が流入した。こうした中で、 貿易での利益を求めて、福建や広東の人々が、禁令をおかして東南アジアに行くようになった 。 彼らは南洋華僑のもとになった 。 また、清朝は、ヨーロッパ船の来航地を広州に限定し、貿易は公行と呼ばれる商人組合 が管理するようになった。税制面では、地丁銀制が実施されて簡略化が図られた。この広州における交易の主導権はイギリスの東インド会社であった。ここに清末の阿片流入の下地が準備されることになる。

清の文化
 清代には、顧炎武や黄宗義らが、事実に基づく実証的な研究の必要性を説き、儒教経典の文献学的研究が盛んになった。こうした学聞は考証学と呼ばれ、その後、史学の銭大昕などが出た。ま た、清代には、細密な筆致で上流階級や知識人の生活を描いた 『紅楼夢』 や『儒林外史』(作者は呉敬梓。清朝の科挙による出世が当然視されていた時代に、科挙にふりまわされる当時の人々の作品である。)などの長編小説も書かれた 。
 一方、北京では、各地の地方演劇が融合して京劇が成立した。さらに、清朝が技術者としてイエズス会宣教師を重用したため、アダム = シャール 、フェルピースト 、ブーヴェ 、カスティリオーオ などが活躍した。プーヴェは、中国全図である『皇輿全覧図』 の作製に協力し、カスティリオーネは、バロック式の洋館をもっ離宮で ある円明園の設計に参与した。しかし、イエズス会の中国文化を重んじた布教の仕方がローマ教皇に否定されたため ( 典礼問題と言われる ) 、雍正帝はキリスト教の布教が禁止し、政府の雇用するもの以外の外国人は国外追放としてしまった。

清の政治体制の動揺
 18 世紀には、人口が 1 億数千万人から約 3 億人へと激増した。 その結果、山地開墾が進み、耕地も大いに増大し、外来のトウモロコシなど商品作物の栽培が盛んになったが、人口がそれ以上に増えたため、土地不足は解消できず、農民の貧困化や開墾による環境破壊が進み、18世紀末、7代嘉慶帝の時代には、四川などの新開地で大規模な白蓮教徒の乱が発生した。  しかし、清朝は八旗や緑営だけでは鎮圧できず、郷勇 ( 民間の武装出哉 )の力を借りてようやく鎮圧した。以後、清朝の統治体制・財政の弱体化が顕著になっていった。
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