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双百から反右派闘争への激しい転換

朝鮮戦争終結後から過渡期の総路線をへて反右派闘争に至る激しい変動と経過
 朝鮮戦争を終結し、中国は本格的な国内建設に着手した。毛沢東の「過渡期の総路線にかんする指示」が大衆討議にかけられる一方全人代の準備が進められた
 そして1954年には、中華人民共和国憲法を制定し、暫定的な行政機構であった政務院を国務院(総理・周恩来)として正式に確立するとともに、長期にわたる漸進的な社会主義建設の基本方針として、「過渡期の総路線」を正式に採択し、こうした穏歩前進の基本路線は、憲法前文にも成文化された。
 この時期は中国が「平和五原則」を標榜し、国際的にも、威信を持ち光り輝く存在として、関係諸国からも受け止められた。
 しかし、毛沢東は第一次五ヵ年計画が全人代で採択されたその翌日、中国共産党全国各省・市・区党委員会書記会議を召集して、「農業協同化の問題について」と題する報告をおこない、「過渡期の総路線」の構想をはるかに上まわる激越な農業集団化を呼びかけた。(中嶋峯雄著『中国現代史』参照)
「過渡期の総路線」から急激な変換が行われた要因
  1. 農業生産の発展のためにまず生産関係の変革をおこない、大衆動員によって生産力の躍進をはかろうとした「毛沢東思想」が指摘されねばならないが、それが穏歩前進型社会主義改造への激しい批判を含んで強調されたことが決定的であった。そこには彼の階級闘争の単純化と大衆の主体的意識飲みに一面的に働きかけて、独裁的に政治を推し進めようという独善性が指摘されよう。
  2. 1954年から55年にかけて中国共産党をゆさぶった高崗・饶漱石事件に象徴される政治的緊張を指摘しなければならない。(別途研究する)
  3. 54年の「紅楼夢論争」から55年の胡風批判にいたる過程で生じた上部構造の緊張や知識人の離反・沈黙という状況が指摘できよう。

  4.  このようにして、政治的にもイデオロギー上でもさまざまな矛盾や緊張が蓄積されつつあっただけに、毛沢東は一挙に農業集団化を断行し、社会主義建設の革命的前進をはかって情勢を転換しようとしたものと思われる。中国の後進性に対する焦りと跡付けられようが、跡付けなら何とでもいえる。(筆者)

スターリン的弊害を克服
 1956年2月、ソ連共産党第20回大会で「スターリン批判」が敢行され、スターリン神話が一挙に崩壊したことは、中国の指導者にとっても深刻な衝撃であった。かれはスターリンの弊害は「人民内部の矛盾」と位置づけ、これを克服するために、知識人にたいしては「百花斉放・百家争鳴」を呼びかけ、民主諸党派には「長期共存・相互監督」を提案した。党中央は「言者無罪」を唱えて、中国共産党への批判さえ積極的に呼びかけたのであった。
 こうした「百花斉放・百家争鳴」運動を大衆的に大々的に組織し、整然と社会主義路線を推し進める姿に中国共産党の威信はいやがうえにも高まった。

 しかし、ここにもまた毛沢東の単純化の弊害が現れることとなる。何故スターリン的弊害を人民内部の矛盾と一面化できたのであろうか。中国人民内部の矛盾とは一体何を指すのだろうか。中国に現れたスターリン的弊害とは、何で本当に人民内部の矛盾から生じるものであろうか。

放鳴運動から反右派闘争へ
 ところが、「百花斉放・百家争鳴」運動が、中国共産党批判、すなわち毛沢東権力への批判となってはねかえってきたとき、中国共産党は、1957年6月8日を期して、この運動を「反社会主義の毒草」を一掃するための反右派闘争へと急遽転換させていった。
 これは、人民に対する裏切り行為であり、以降共産党に対する信頼は失われたと思わねばならない。
 この急激な転換こそ、中華人民共和国の、そして中国革命のこれまでのプロセスのなかでもつとも衝撃的な意味をもつ決定的な転換であった。民主諸党派知識人や党外のリーダーたちへの中国共産党の対応という点からしても、それは中国革命を支えた民族統一戦線の論理からの完全な訣別を意味したのであり、これ以後中国は文字どおり中国共産党の一党独裁体制を強化し、社会主義社会における複数政党の存在という、中華人民共和国建国当初のユニークな政治原則は完全に形骸化していった。
     こうして、中国国内では右派というレッテルを張られることの恐れが蔓延し、教条主義的で、左翼小児病的な勇ましい発言が幅を利かすようになり、それはやがて、五八年の対内的な「大躍進」政策、対外的な強硬外交へと受けつがれていった。それはさらに、「総路線・大躍進・人民公社」という〝三面紅旗″の主観主義的な大きな流れへと発展し、やがては文化大革命という途方もない熱病の世界へと流れ込んでいく。

「総路線・大躍進・人民公社」という〝三面紅旗″の挫折
     こうしたなかで、「共産主義がわが国に実現するのも、もはや遠い将来のことではない」 (中共中央「農村に人民公社を設立する問題にかんする決議」(1958年8月29日))として58年夏に出現した人民公社は、「大躍進」政策の実行単位として1958年末までに全国の農村で組織化された。人民公社は工・農・商・学・兵が結合した「政(行政機構)」と「社(合作杜)」の合一体(「政杜合一」)として位置づけられ、全中国農村の人民公社化がはかられた。そして、台湾海峡の危機を背景とする国際緊張のただなかで全中国が熱狂的な「大躍進」運動の相場と化していったのである。しかしながらこのようなひたすら農民大衆の主観的能動性に依拠した「大躍進」政策のひずみは、翌59年にははやくも深刻なかたちで各農村に顕在化し、毛沢東に対する批判として跳ね返り、廬山会議、をへて、毛沢東は国家主席を辞任し、その地位を劉少奇に譲って不本意ながら政治の第一線から第二線へと引きさがらざるをえなくなった。この事実こそ、やがて文化大革命による毛沢東の奪権闘争という政治的復讐への巨大なドラマの伏線になったのであった。

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