3-8.05 義和団事件

義和団事件

断末魔の清朝
 1900 年前半に義和国運動が活発となり、鎮圧にあたった官軍を撃破するようになり、都市部では、電信線や鉄道など広〈外国に由来する事物を破壊するようになった。
 こうした事態の到来を各国はハゲタカのように狙っていたが、清朝政府に徹底した排外活動の取り締まりを要求すると共に居留民保護を名目に北京へ派兵した。
 こうして両者聞の緊張が高まる中で、各国軍との軍事衝突が発生した。これを事実上の開戦と理解した西太后は同年 6 月宣戦を発し、英・仏・米・独・奥 ( オーストリ ア ) ・伊・露・日の 8 ヵ国連合軍による清朝への侵略戦争に突入した。これが義和団事件である。
背景
 日清戦争以後、弱体ぶりを露呈した清朝に対して列強各国は各種の利権獲得など、進出の動きを強めることとなった。まずロシアを皮切りに、他の列強諸国も続々と租借地や鉄道敷設権などの利権を競って獲し、さながら中国は帝国主義国の草刈り場の観を呈することとなった。
 こうした状況は、排外主義の高まりをもたらしていった。そうした中で、19C後半、キリスト教の布教の解禁に伴って、その保護を求めて入信する者と信徒以外との軋轢も強まり、特に華北列強各国の植民地主義の強奪にさらされていた華北では、民衆の排外的な気運が高まり、先鋭化していった。

経緯
 19世紀後半、道教・仏教をベースにした伝統信仰と太極拳 に代表される民間武術を融合させた農村各地の民間結社が結成されていたが、1900 年前半には、それが連鎖的に排外活動に乗り出し義和国運動となって、鎮圧にあたった官軍を撃破するようになり、都市部に進出して大規模に活動を展開し、さらに電信線や鉄道など広〈外国に由来する事物を破壊するようになった。
 こうした事態を各国はハゲタカのように、千載一遇のチャンスととらえ清朝政府に徹底した排外活動の取り締まりを要求すると共に居留民保護を名目に北京へ派兵した。  これに対して清朝内部では列強がこれを機に中国分割を実行することを危慎する意見が台頭し、両者聞の緊張が高まる中で、各国軍との軍事衝突が発生した。これを事実上の開戦と理解した西太后は同年 6 月宣戦を発し、ここに事態は英・仏・米・独・奥 ( オーストリ ア ) ・伊・露・日の 8 ヵ国連合軍と清朝との戦争に発展した。これが義和団事件である。

顛末
 この事件は地方では沈静化する動きを見せたものの、8 ヵ国連合軍はその帝国主義的野望をむき出しにし、清朝正規軍および義勇兵に編入された義和団との戦闘を継続し、包囲下の外国人を救助すべく天津から北京へと進軍した。
  そして、同年 8 月に北京を攻略・占領し、西太后らは西安に逃れた。   その後は李鴻章が講和交渉の任にあたり、 1年近くをかけて 1901 年 9 月に北京議定書が成立した 。 これにより、清朝は莫大な賠償金をを39 ヵ年にわたって拠出するほか、責任者を処罰し、また居留 外国人の安全確保に関する措置を受け入れた。こうして重い代償と引き替えに講和は成立した。  このことはこうした事態を招いた自らの「後進性」の直視とともに、徹底した改革の必要性が西太后以下、政府当事者から在野の知識人に至る社会指導層の共通認識となっていった 。
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