洋務運動:太平天国の乱をきっかけに始められた近代化運動の役割と挫折

洋務運動:清朝末期の体制内近代化運動の焦りと結末

直接のきっかけは、太平天国の乱で露呈した清朝の弱体化を防止するために、はじめられた近代化・西洋化の取り組みを「洋務運動」と称する。しかし、中国の制度や思想を根本とし、必要な範囲での西洋の科学・技術の取入れであったため、中国の伝統的体制は帰ることができなかった為、極めて不徹底な改革運動に終わった。

中国の脱皮の苦しみ
 アへン戦争以来の欧米との戦闘経験は、その軍事力の優越性を否応なく思い知った。また太平天国の乱の鎮圧のため、腐敗した清朝の正規軍(八旗、緑旗)に代わって、地方の軍閥に軍事力を組織させた。曾国藩には湘軍、李鴻章には淮軍、左宗棠には楚軍である。そして清朝による軍事分野の近代化が開始された。
 これを端緒として、はじめられた近代化・西洋化の取り組みを「洋務」と称する。以後日清戦争に至るまで、「西洋の実務」を取り入れるべく、複数の分野で近代化が推進されていった。
 このように中国の制度や思想を根本とし、必要な範囲での西洋の科学・技術の取入れであったため、中国の伝統的体制は少しも揺るがず、洋務派官僚の腐敗も著しいものがあったという。
 しかしながらこの運動が一部にせよ中国の旧体制に新風を吹き込んだことには間違いはなく、大きい目で見れはこの運動の果たした役割は大きい。
軍備の近代化
     軍隊に兵器を供給するべく、李鴻章らの手で近代的な設備を有する兵器工場が上海や天津など各地に建設され、各種の火器や弾薬を製造した。1880年代に北洋・南洋・福建の近代海軍各艦隊が編制されるようになると、旅順などに大規模なドックも整備された。しかしこの近代化は「中体西用」のスローガンにに代表されるように、これまでの支配体制はそのままで、単に技術的な面だけの近代化であったため、中途半端に終わってしまったと同時に、軍閥については李鴻章などの軍閥に力を肥大化させ、辛亥革命以降の「真の近代化」にとっての障害となった面もある。

軽工業、石炭、鉱業、運輸、通信、交通
     こうした軍需工業とともに、民需では、1890年からは上海で最初の綿紡績工場が操業開始するなど、繊維を中心とした近代軽工業の発展が開始された。  さらに工場や汽船への燃料供給のために石炭の採掘も近代化され、各地で大規模な炭坑開発が進められた。金山や鉄山も含めた鉱業分野の近代化もされ、運輸通信分野でも近代技術を導入した革新が見られた。  1870年代以降、汽船輸送や電信・鉄道などの導入も推進され、各地を結んで近代交通のネットワークが形成されていった。


外交
     同時期に近代化が進展したもう1つの分野は、外交である。1861年に設置された総理衙門は、欧米各国との近代外交の窓口となり、1870年末代以降は清朝側からも外交官を各国に派遣して各種の交渉に当たらせた。
     その人材育成のため、語学や近代国際法などの教育を行なう学校を開設し、また欧米各国に留学生を送るなどの施策も取り組まれた。

洋務運動の限界と功能
     今日から見た一般的な評価は不徹底であったということだ。  李鴻章ら清朝官僚の手で推進された近代化は、結局清朝の支配体制の強化を目的としたものであり、そのことは結果として中国の全面的な近代化を妨げてしまったと批判される。  なぜそうなったかには、中国社会の後進性、清朝自体が保身のための改革に押し込めてしまったことなどが、日本の場合の明治維新という変革を通して、旧支配体制が完全に破壊されていた点で大きく異なるのではないか。  ただ、地域的な格差はあるものの、同時期に着実な進展を見ていった実務面での近代化の成果は、以後の中国社会の変革の重要な基礎となった。
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