洋務運動:清朝末期の体制内近代化運動の焦りと結末
直接のきっかけは、太平天国の乱で露呈した清朝の弱体化を防止するために、はじめられた近代化・西洋化の取り組みを「洋務運動」と称する。しかし、中国の制度や思想を根本とし、必要な範囲での西洋の科学・技術の取入れであったため、中国の伝統的体制は帰ることができなかった為、極めて不徹底な改革運動に終わった。中国の脱皮の苦しみ |
---|
アへン戦争以来の欧米との戦闘経験は、その軍事力の優越性を否応なく思い知った。また太平天国の乱の鎮圧のため、腐敗した清朝の正規軍(八旗、緑旗)に代わって、地方の軍閥に軍事力を組織させた。曾国藩には湘軍、李鴻章には淮軍、左宗棠には楚軍である。そして清朝による軍事分野の近代化が開始された。 これを端緒として、はじめられた近代化・西洋化の取り組みを「洋務」と称する。以後日清戦争に至るまで、「西洋の実務」を取り入れるべく、複数の分野で近代化が推進されていった。 このように中国の制度や思想を根本とし、必要な範囲での西洋の科学・技術の取入れであったため、中国の伝統的体制は少しも揺るがず、洋務派官僚の腐敗も著しいものがあったという。 しかしながらこの運動が一部にせよ中国の旧体制に新風を吹き込んだことには間違いはなく、大きい目で見れはこの運動の果たした役割は大きい。 |
軍備の近代化
軽工業、石炭、鉱業、運輸、通信、交通
外交
その人材育成のため、語学や近代国際法などの教育を行なう学校を開設し、また欧米各国に留学生を送るなどの施策も取り組まれた。 洋務運動の限界と功能
|
中国百科検定攻略「歴史」洋務運動のページに戻ります。 |
0 件のコメント:
コメントを投稿