中華民国
| 中華民国の誕生と地方政府 |
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| 辛亥革命の結果、1912年 1月 1日、アジア初の共和国が南京を首都として成立した 。 元号は、国号の「中華民国」を使うと定められ、12 年が 中華民国元年とされた。また中華人民共和国の建国記念日 (「国慶日」) は、武昌での反清蜂起が起こった 10 月 10 日である 。 この中華民国は大きく言って三つの時期に分けられる。それは、北京政府時期 (1912 _ 28 年)と南京政府時期(1928ー49年)と台湾政府時期(1949-)である。 そしてこの北京政府時期の末の4年間が国民革命と呼ばれる時期である。この国民革命は1924年に孫文の指導する中国国民党が中国共産党との間で第1次国共合作によって成立した、両者の協力で北京の軍閥政権を倒し、中国の統一を目指す段階となってから、広い意味の中国革命は「国民革命」と言われるようになる。 |
| 北京政府時期 (1912 _ 28 年 ) 中華民国は清朝が先進資本主義国と結んだ不平等条約を継承せざるをえなかった 。 また国内の政治的・経済的支配層も、清朝時代と変わらなかった 。 実際、初代の正式な大総統袁世凱は、清朝の延命のための政治改革 (「新政」) を進めた。 袁世凱は近代化を目指し、また第 1 次世界大戦に参戦して戦勝国となるなど、国威の発揚に努めたが、日本の対華 21 個条要求など、さらなる侵略もこうむった 。 こうした状況のなか袁世凱は、帝政の実現を目指したが、挫折し1916年に死去した。その後、地方軍事勢力 ( 軍閥 ) が、北京の大総統の座をめぐって対立し、中国は内戦状態に入っていく 。 こうした状況の下で、政治制度の 変革だけでは不十分だとして、「国民性」の改造を求める人々も現れた 。1915 年から本格化する「新文化運動」である 。 この運動は雑誌『新青年』を舞台として陳独秀・李大剣・魯迅ら日本留学を経験した人々や、胡適ら元アメリカ留学生によって担われた 。 さらに 1919 年 5 月 4 日には愛国運動(「五四運動」) が起こり、北京政府への批判が広がった 。この運動は、第 1 次世界大戦のパリ講和会議の結果、山東権益が、日本へ奪われ譲渡されかねないと理解されたことで始まったものであった 。 当時、『新青年』などを通じて中国には、マルクス主義やリベラリズムなど新しい思想が持ち込まれており、前者に共鳴した陳独秀・李大剣らは、1921年に中国共産党を組織した。 他方、19年に中華革命党を中国国民党に改組した孫文らは、広東省を基盤として北方の軍閥勢力に対抗していた 。 国民革命 1911年の辛亥革命によって清朝の専制支配が終わったにもかかわらず、中国社会は依然として封建的な地主-小作人関係が残存し、不平等条約のもとで外国資本の支配を受け続けていた。しかも政治的には「中華民国」の実態は北京(当時は北平といわれた)の支配権をめぐって軍閥などが入り乱れて抗争し、国民不在の状態が続き、帝国主義勢力の侵出を許していた。 第一次世界大戦後中に始まった反軍閥・反帝国主義は五・四運動となって高揚し、また新たな勢力として中国共産党が出現した。そのような動向を受けて孫文は大胆に三民主義の方針を転換、国共合作に踏み切り、真の「国民のための政府」を作り出す戦いに転換した。この段階が「国民革命」であり、「国共合作を基盤とした反帝国主義・反軍閥の民族民主革命」と定義することができる。この国民革命は、北伐という動きで実践された。 南京政府時期 (1928ー49 年) 国民革命 (1924ー28 年、その一部が北伐 ) の結果、首都は南京へ遷都され、 国民党の一党独裁に基づく政権が成立したが、国号は変更されなかった 。 日中戦争中には、汪精衛が各地の(傀儡政権を結集し、 1940 年に南京を首都とする対日協力政府を組織したが、多くの中国人の支持を得ることはできなかった 。 第 2 次世界大戦の戦勝国となった蒋介石の中華民国は、 1945 年以後、国際連合安全保障理事会の常任理事国のー国となり、 「5大国」 と称された 。 台湾政府時期 (1928ー49 年) 49 年に共産党に軍事的に敗北した国民党が台湾に逃れ、中華民国政府も台湾へ移ることになった 。 以後、1971 年の国際連合脱退、 96年の総統民選以後も、台湾では中華民国の国号が使われており、建国記念日・元号も変更されていない。とはいえ日本政府は 72 年の日中国交正常化以後は、中国を代表する政府は中華人民共和国のみであるとの立場をとっており、台湾の中華民国との国交を断絶した 。 台湾との呼称が一般的であるゆえんである 。 |
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