明の成り立ち
| 明朝異聞(「中国の歴史」(貝塚茂樹著)参照 |
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| 中国史上で平民から身をおこして王朝の創業主となったのは、漢高祖と明太祖の二人だけである。貧農のみなしごに生れた朱元璋は飢饉から免かれるために仏寺に入り、托鉢僧として流浪するうちに、文字をおぼえ詩文までつくれるようになった。 この点では文字が読めなかった漢高祖にくらぺると知識人であったが、太祖は漢高祖を崇拝し、軍事・政治のやり方をすっかり手本とした。しかし漢高祖の性格は明るく、功臣からも敬愛されていた。 明太祖の性格は暗く、底知れぬ残酷さによって功臣に恐怖をあたえた。この暗さが明王朝蒜の政治に大きな陰影を投じたことは争えない。ここではその太祖の性格の暗さが明朝の政治にどう反映されたかを探る。 明の皇帝は初代の洪武帝と2代目の建文帝から力ずくで王位を奪い取った永楽帝の2人だけが傑出しているようで、あとは暗君であったようで、この近代に橋渡しをすべき大事な時に宦官が政治を左右したということは中国の最大の不幸というべきかもしれない。 万暦帝に至っては20余年も朝廷に出なかったという大変な怠け者だったとのこと。(陳舜臣『中国5千年』より) |
| 明太祖の専制暗黒政治 明太祖は漢人の民族国家を建設したのち、さらにこの国家をば専制主義の体制によって強化することに全力をそそいだ。貧しい身分からでて、酷烈な内乱の問を生き抜いてきた太祖は、人間に対する信頼を失い、猜疑心が極端につよくなった。 太祖は宰相を置かず、中書省と門下省の高官を整理し、皇帝個人があらゆる政務を決裁する大権をもつ体制をつくった。内閣大学士を晋、天子のそばに侍して顧問の役をつとめさせ、百官の上奏にたいして下す天子の決断、いわゆる批准を天子の前で筆で書かせた。この決定を六部の尚書に下して行政を実施する。 行政機構 六部とは
六部はそれぞれの尚書を長官として官庁を構成した。 大都督府に改め、前後中左右の五軍都督に分割して、軍権の集中をさけた。 地方行政も、長官をおかず、都指揮使(司)により軍事をつかさどり、 布政使(司)によって行政をつかさどり、 接察使(司)により裁判行刑をつかさどらした。 農政 蒙古の統治によって徹底的に破壊された中国社会経済をふたたびたてなおすのが、明帝国に負わされた任務であった。貧しい小作の孤児から身をおこした明太祖のとった政策はもっとも効果的であった。
中国最高の軍人帝王 永楽帝 太祖が死んで太孫の建文帝(意帝)が即位すると、地方の国王に封ぜられていた二十四人の太祖の王子たちの対策が大問題になった。若い皇帝の伯父である年長の諸壬のうち、とくに北辺の寧王、燕王・晋王などは、蒙古にたいする防衛の必要上広範な軍事権をあたえられていたため、その勢力は強大となり、南京の中央政府に脅威をあたえた。 学問好きのおとなしい恵帝は、一方では太祖の専制主義の統治の手直しをして、江南地方の重税をかるくするなどの政策を行いながら、一方でまず弱小の諸国の整理に着手し、諸王の過失を見つけ、死罪に処した。 実力者の燕王はこれに反撥して建文帝の左右の奸臣を排除するという名目で、兵をあげた。建文帝の行方はわからなくなり、燕王がかわって帝位についた(一四〇三年)。これが明成祖(永楽帝)である。 永楽帝の功罪
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