春秋戦国時代

第6章 古代~唐代:春秋戦国時代


春秋戦国時代
 春秋戦国時代は大きな変革を経験した時代である。 春秋時代は東周平王の即位する紀元前770年を開始とし、戦国時代は春秋晋国の有力世族である韓・規・超(三晋)が前453年に晋を三分した三家分晋をもって戦国時代の始期とする考えが有力である。戦国は以降前221年の秦統ーまで続く。なお東周時代は春秋時代と称するほうが、通りがいい。
 さて時代区分はこれでいいとして、春秋戦国時代はどのような時代であったのかを見ることは大切である。

 陳舜臣氏は「中国五千年(上)」(講談社文庫)の中で、いくつかの観点からこの時代を分析している。
  • 春秋は覇者の時代 戦国は簒奪(君主の座を奪い取ること)の時代
  • 辺境に封じられた諸侯が背後の地を開墾し、富強になり、周との力関係が逆転した
  • 青銅器から鉄器への移行(戦い方が変化した、戦車戦が歩兵戦に変わった)
  • 治水技術も向上し、農業技術の発展が見られ、生産力が著しく向上し、庶民の力が向上した
  • 富国強兵のための理論的背景が要求された(諸子百家)
この時代に達成された製鉄技術の進歩は、武器の長足の進歩と共に、農業技術や農器具にも目覚しい発展を促し、農業生産も大きく発展をした。これはこの時代では産業革命と呼ぶべきものかもしれない。

 また殷の時代の奴隷制は一部残っていたにせよ、西周時代の400年の過程の中で、封建制の浸透と井田制による農業生産の拡大のための制度的保障となった。
 確かにこのように見ると、春秋時代に140余りの国が割拠して、なぜ覇を争ったかがよく分かる。周の封建制のお陰で、農民は土地に定着し、農業技術が進歩すると、人々の暮らしが豊かになり、国力も増大する。君主は、より多くの農地と農民を求めて、戦いを繰り返す。
 しかしこれが戦国時代になり、いくつかの強大国にまとめられてくると、まとまった強大な国の中で、血みどろの簒奪戦が繰り返されるようになる。これが戦国時代の図式である。この戦いの中で、他を圧倒し、統一を成し遂げていくのが秦である。
春秋時代
    春秋時代  周の幽王が殺されて、平王が洛陽に遷都して以降を春秋時代と呼ぶ。周王の権威が弱まり、封建諸侯が力を伸ばした。代表的な諸侯は春秋の五覇と呼ばれ、斉の桓公・宋の襄公・晋の文公・秦の穆公・楚の荘王とする説と、宋・秦に代えて呉王と越王を加える説もある。
     春秋時代の各国の内部には諸侯の下に卿・大夫・士という階層があり、当初はその秩序は厳格であった。春秋時代までは一族の血縁的なつながりを強く維持し、宗主のもと団結して行動した。中でも晋と楚の二国が強大で、その二国を主軸として他の国が離合集散を繰り返していた。この二国は北方の騎馬民族や南方の民族との交流があり津煮に活性化されていたという可能性はある。しかし、春秋時代も中後期になると諸侯国の中では上下の秩序が乱れ、世族内部でも統制のきかない事件が起こるようになる。下克上と呼ばれる事例が各国で起こった。強大国であった晋はその最たる例であり、東方の大国斉でも他国から入った田氏が国君を暗殺して後に諸侯に列せられた。このようにして、時代は混乱と戦いの戦国時代という坩堝の中に突入をしていった。

戦国時代
     戦国初期に勢力を伸ばしたのは魏である。しかし魏は前4世紀半ばにいくつかの戦いに相次いで敗れ、さらなる発展を挫かれた。西方の秦は孝公の時、商鞅を登用し、2度にわたる変法によって国内制度を改革した。その内容は多岐にわたり農業、税制、軍事、地方行政のほか、村落秩序や家族組織にも及んだ。この商鞅は秦に絶大な貢献をするが最後は八つ裂きの刑により刑死してしまう。商鞅のお陰で晋は七雄の仲でも最大の勢力となり、以後秦対合従連合の戦いという図式で展開することとなる。この時代は、各国は富国強兵に努めた。
     この時代、郡県制という地方統治の仕組みが整備され、その官府には君主の手足となる官吏が配置された。
     この時代背景に蘇秦や張儀などの戦略家(縦横家)が活躍した。同じ頃戦国四君と呼ばれる斉の孟嘗君、越の平原君、魏の信陵君、楚の春申君は多くの食客を集め、名を轟かせた。
     戦国時代には鉄器と牛耕が広がり、農業生産が発展した。また青銅器も春秋時代の礼器から実用的な器物に変わった。青銅貨幣が大量に発行され、金とともに流通した。貨幣は武器や農具など多様な形をとったが、最終的に円形の秦の半両銭に統ーされた。こうした背景のもと中原では都市が発展し、かつての血縁的なまとまりも崩れていった。
中国百科検定攻略「歴史」のホームページ に戻ります。

0 件のコメント:

コメントを投稿