文化大革命は毛沢東が発動した政治運動である。これを許した体制の後進性が清算されていない恐ろしさが顕在化

文化大革命

文化大革命は毛沢東が発動した権力闘争はである。これを許した体制の後進性が清算されていない恐ろしさが顕在化
文化大革命は中国の後進性を体現した
毛沢東
文化大革命 ( プロレタリア文化大革命、略称は文革 ) は 1966 年に毛沢東が発動した政治運動であり、中国の政治・経済・文化等あらゆる方面に深刻な混乱と停滞をもたらした。その背景には、中国が米ソ2 超大国と対立するという緊迫した国際情勢があり、また それとリンクした毛の国内外の情勢に対する過剰な危機感があった。
 「中国共産党簡史」によると、毛沢東の発動したこの”大革命”の出発点は資本主義復活を防止して、党の純潔性を維持し中国自身の社会主義建設の道を追及することであった。
 ただ彼は党と国家政治状況に対して既に非常に大きな間違った固定概念に囚われていた。
発動の背景
  • キューバ危機の際、ソ連が当事国の了解を得ぬまま勝手にアメリカと手を打ったことに対する不信感が根強くあった。中国もソ連修正主義の手によって、アメリカと手を打たれるのではないかという恐れを抱いていた。
  • 中国が米ソ2 超大国と対立するという緊迫した国際情勢があり、また それとリンクした毛の国内外の情勢に対する過剰な危機感があった。
  • たとえば、最悪の場合重要施設は内陸へ移して守るべく、1964 年以降、西南地域の奥地に工場を移転・新設する「三線建設」が推進された。
  • ソ連との国境紛争の危機も高まり、長い国境を有するソ連への危機感が次第に増大していった。
  • 国内においては、自らの数々の政策の失敗に対する国民の批判の高まりもあり、毛は焦りを感じていた。
  • なにより、毛には中国人民と中国共産党に対する根強い不信感があり、ある意味強い強迫観念にとらわれていた。



林彪
紅衛兵
文革の過程
  1. 前期 :
      運動はまず、ブルジョア的思想・文化に対する闘争として開始された 。 1965年11月、新編歴史劇「海瑞罷官」に対する批判が文革の口火となった。 1966年 5月、康生・陳伯達・張春橋、そして毛沢東の妻・江青 ( のちの「四人組」 ) を中心メンバーとする中央文革小組が成立し、文革が本格的に開始する。
     毛は、思想的にも深いものはない自己顕示欲が強いだけのエキセントリックな妻とその側近を抜擢し、国防部長の林彪を味方につけた 。
    さらに、毛を熱狂的に信奉する若者たちからなる紅衛兵を煽って、政府や党機構を破壊させた。
     党が結党以来、革命闘争や抗日戦争の中で累々と積み上げてきた人民との信頼関係はずたずたにされ、よき風習も紅衛兵の泥靴で踏みにじられた。私は毛沢東の最大の罪悪はここにあると思っている。
     そしてここにこそいまなお払拭できていない中国の民主主義の後進性があると考えている。
    この期間を通じ、林彪は力を伸ばし、1969年の第九回党大会では毛の後継者に指名された。


  2. 中期
     毛の文革の発動の狙いは自らの政策の失敗に対する国民の批判の目をそらすことにあり、「反ソ」を煽り立てることにより、中ソ間の緊張はいよいよ高まった。対米接近が模索されるようになったが、それを主導したのは周恩来ら実務官僚グループであり、林彪グループは孤立し、失脚していった ( 林彪事件 ) 。

  3. 後期
      1971 年のキッシンジャー訪中、 1972 年 2月のニクソン訪中で米中の関係改善が実現し、日本とも同年 9月、田中角栄首相が訪中し、国交を正常化した。
    こうして国際緊張の緩和が進み、これを背景に国内では 周恩来と復活した邓小平らが秩序を回復し、経済再建措置をとろうとした。 四人組は、1976年 9月毛沢東が亡くなり、後ろ盾がなくなるとまもなく失脚し、文革はようやく終結した 。

結び この教科書では、文化大革命の要因を以下のように見ている。文化大革命そのものについては、それでいいのかもしれないが、しかしもう一歩突っ込んだ分析がほしいところである。なぜなら文革をどう見るかが、現在の中国を如何に判断するかにかかわってくると思うからだ。
 「文革は毛沢東が起こした権力闘争とみなされることが多いが、それだけにとどまらない要素が複雑に絡んでいた 。 中国全土が 10 年にもわたり 動乱状態に陥ったのは、建国以来の社会主義建設が各方面において矛盾を蓄積していたからであり、民衆の不満が一気に爆発したのも一因であった 。」

中国共産党の「党史研究室」というところが、発行した「中国共产党简史」という本の中で、文革の総括に触れている。
    文化大革命については、全面的かつ長時間の左傾の誤りは毛沢東の主要な責任に負うところが大きい。ただしこの誤りは結局は中国の社会主義への道の探索中に犯した誤りである。毛沢東はいつもわれわれ党内と国家生活の中に存在していた欠点に注意していた。しかし晩年、多くの問題についてはその上正確な分析ができなかった。しかもさらに文化大革命の中で、敵とわれわれの是非が混沌としていた。・・彼は終始自己の理論と実践がマルクス主義的であると認識していた。強固なプロレタリア階級の独裁の必要欠くべからざるところであり、これが彼の悲劇の所在である。毛沢東は全ての局面でも文化大革命的な誤りを堅持した。但し制止と糾正もまた誤りを犯した。

 10年にも及ぶ全国家レベルで犯した誤りの総括にしてはあまりにもお粗末ではないだろうか。毛沢東の個人的な誤りもさることながら、なぜその誤りを党として是正できなかったのか。党としての構造的欠陥を持っていたのではないのか。毛沢東をあそこまで祭り上げたのは誰なのか。長年にわたる失政にも拘らず、その真の原因を曖昧にし、個人的崇拝を強めた結果ではないのか。中国は歴史から学べと日本によく言う。しかし自らはどうなのか?襟を正すべきではないのか。誤りを認めることは本当に勇気のいることである。そのことにより予期せぬ事態を生むかもしれないことはよく分かる。だからこそここまで事が大きくなる前に、ここの事象が現れた時点で、真摯に総括し、誤りを是正することが不可欠だと思う。むかし、中国軍は人民の財産は鉛筆一本取らないという気高きモラルを具えていたと聞いている。それが今ではどこに行ったのだろう。
 日本ももちろん過去に犯した過ちは率直に謝るべきである。口先だけではなく具体的行動に示すべきである。日中両国の真摯な態度が今何より求められるべきではないのだろうか。
 今現時点で何をなすべきか? それは、直ちに過去の総括を真摯にし、今の政策と姿勢を少しずつ、是正して行くことではないだろうか。そうすることによって、中国の権威は高まり、アジアばかりではなく世界中の人々からもろ手を挙げて歓待されるようになるだろう。今の中国はそのように方向転換しても、国家が揺らぐような柔な状態にはないだろう。


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