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2020年7月4日土曜日

台湾の歴史 長い間翻弄され続けてきた台湾が、ようやく自分の足で歩き始めた

台湾の歴史 長く先住民が支配していたが、1600年代初頭に世界に開かれるようになった

 「台湾」という用語について
 ここでいう台湾は、一般的概念で言う台湾を言うのであり、中国政府が主張する「一つの中国」でいう「台湾」を指しているわけではない。現在の複雑な状況の中では、政治的にあまりシビアな線引きをしない態度をとることをお許し願いたい。
 台湾の歴史
 「一つの中国」のスローガンの下に、台湾が国際社会の第一線の舞台に姿は見せなくなったが、現実の社会では、その姿は一層輝きを増している。  台湾の歴史は古く、古く氷河期の時代には、既に大陸から人類が移住し、文明の花を開かせたことは証明されている。しかし、台湾が歴史の表舞台に登場してくるのは、明朝の「大航海時代」以降のことであるといって差し支えない。ここでは、中国歴史ほど大きく知られていない「台湾の歴史」を概括的に振り返ることにしよう。
さらに地政学的な観点から、台湾の地理についてぜひ「中国百科 地理編「台湾」についてもぜひご参照願いたい。
台湾の歴史
台湾は大きく次の5つ時代区分に分かれるとしている。以下台湾の歴史をこの歴史区分に基づき、大まかに振り返ってみたい。
先史及び原住民時代 (1624年以前)
    地質学の研究によれば今から300万年から1万年前の更新世氷河期の時代、台湾は中国大陸と地続きであり、大陸から人類が台湾に移住し、居住していたと考えられている。
    新石器時代以降の先史文化は台湾南島語系民族によるものであり、現在の原住民が台湾に定住する以前に、別の族群が台湾に居住していた可能性を示している。
    台湾原住民はオーストロネシア語族に属し(注オーストロネシア語族については、「中国百科攻略ノート 民族宗教編」 高山族とモンクメール語群の諸民族をクリックしてください。)、古くは中国大陸南部に居住していたと考えられている。その後北方漢民族などの圧力を受けて台湾に押し出され、そこから南太平洋一帯に進出していったという説が有力である。しかしその足跡は未だ未解明な部分が多い。

オランダ占拠時代(1624年 - 1662年)
    16世紀の明朝時代になると、大航海時代にあったヨーロッパ各国から多くの人々が来航するようになり、台湾の戦略的重要性に気がついたオランダやスペインが台湾島を「領有」し、東アジアにおける貿易・海防の拠点としていった。そのために、日本への鉄砲やザビエルによるキリスト教伝来も、おそらくは台湾を経由してきたのだと思われる。
    また、そのころ日本の豊臣秀吉は「高山国」宛に朝貢を促す文書を作成し、原田孫七郎という商人に台湾へ届けさせた(高山国とは実質的には存在せず朝貢の目的は果たせなかった)。
    台湾島の領有を確認できる史上初めての勢力は、17世紀初頭に成立したオランダの東インド会社である。東インド会社はまず明朝領有下の澎湖諸島を占領した後、1624年に台湾島の大員(現在の台南市周辺)を中心とした地域を制圧して要塞を築いた。だが、台湾の東インド会社は1661年から「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功の攻撃を受け、進出開始から37年で台湾から全て駆逐されていった。

明鄭統治時代(1662年 - 1683年)
    明が完全に滅んでも、「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保するために台湾のオランダ・東インド会社を攻撃し、1662年に東インド会社を台湾から駆逐することに成功した。台湾の漢民族政権による統治は、この鄭成功の政権が史上初めてである。
    歴史上の鄭成功は、目標である「反清復明」を果たすことなかったが、台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実であるため、鄭成功は今日では台湾人の精神的支柱(開発始祖)として社会的に極めて高い地位を占めている。 なお鄭成功は清との戦いに際し、たびたび江戸幕府へ軍事的な支援を申し入れていたが、支援は実現しなかった。しかしこの戦いの経緯は日本にもよく知られ、後に近松門左衛門によって国性爺合戦として人形浄瑠璃化された。

満清支配時代(1683年 - 1895年)
     清は台湾島を領有することに積極的ではなかったが、最終的には軍事的観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置し、福建省の統治下に編入した(台湾道(中国語版)、1684年-1885年)。ただし清朝は、台湾を「皇帝の支配する領地ではない」、「中華文明に属さない土地」として統治には永らく関心を示さず、特に台湾原住民については「化外(けがい)の民」として放置し続けてきた。その結果、台湾本島における清朝の統治範囲は島内全域におよぶことはなかった。なお、現在、中華民国政府と中華人民共和国は、台湾のみでなく釣魚島(尖閣諸島)にも清朝の主権が及んでいたと主張している。

    清朝編入後、台湾へは対岸に位置する中国大陸の福建省、広東省から相次いで多くの漢民族が移住し、開発地を拡大していった。そのために、現在の台湾に居住する本省系漢民族の言語文化は、これらの地方のそれと大変似通ったものとなっている。台湾南部から始まった台湾島の開発のフロンティア前線徐々に北上し、19世紀に入ると台北付近まで本格的に開発されるようになった。この間、清朝では女性の渡航を禁止したために、台湾には漢民族の女性が少なかった。従って漢民族と平地に住む原住民との混血が急速に進み、現在の「台湾人」と呼ばれる漢民族のサブグループが形成された。また、原住民の側にも平埔族(へいほぞく)と呼ばれる漢民族に文化的に同化する民族群が生じるようになった。
     19世紀半ばにヨーロッパ列強諸国の勢力が台湾にも及ぶようになった。
     1871年、宮古島島民遭難事件が起こった。これは、宮古、八重山から首里王府に年貢を納めて帰途についた船4隻のうち、宮古の船の1隻が、台湾近海で遭難し、台湾上陸後に山中をさまよった者のうち54名が、台湾原住民によって殺害された事件である。日本政府は清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民(国家統治の及ばない者)」という返事があり、慎重の当地の範囲外との見解が示されため、日本の出兵の口実を与えてしまった。1874年には日本による台湾出兵(牡丹社事件)が行なわれた。 1884年 - 1885年の清仏戦争の際にはフランスの艦隊が台湾北部への攻略を謀った。
     清朝は日本や欧州列強の進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、台湾の防衛強化のために知事に当たる巡撫(じゅんぶ)職を派遣した上で、1885年に台湾を福建省から分離して台湾省(1885年-1895年)を新設した。台湾省設置後の清朝は、それまでの消極的な台湾統治を改め、近代化政策を各地で採り始めた。

     だが、1894年に清朝が日清戦争に敗北したため、翌1895年4月17日に締結された下関条約(馬關條約)に基づいて台湾は清朝から大日本帝国に割譲され、これ以降、台湾は大日本帝国の外地として台湾総督府の統治下に置かれることとなる。

日本統治時代(1895年 - 1945年)
     台湾が本格的に開発されたのは日本統治時代になってからである。
     1896年に三一法が公布され台湾総督府を中心とする日本の統治体制が確立した。「農業は台湾、工業は日本」と分担することを目的に台湾での農業振興政策が採用され、各種産業保護政策や、鉄道を初めとする交通網の整備、大規模水利事業などを実施し製糖業や蓬莱米の生産を飛躍的に向上させることに成功している。また経済面では専売制度を採用し、台湾内での過当競争を防止するとともに、台湾財政の独立化を実現している。
     また初期段階後、近代化を目指し台湾内の教育制度の拡充を行った。義務教育制度が施行され、台湾人の就学率は1943年の統計で71%とアジアでは日本に次ぐ高い水準に達していた。義務教育以外にも主に実業系の教育機関を設置し、台湾の行政、経済の実務者養成を行うと同時に、大量の台湾人が日本に留学した。 台湾の併合にあたり、台湾人には土地を売却して出国するか、台湾に留まり帝国臣民になるかを選択させた。
     1895年に台湾が大日本帝国に編入された時、併合に反対する台湾住民は、「匪徒刑罰令」によって処刑された。その数は3000人に達した。抗日運動は、1915年の西来庵事件(タパニ事件)で頂点に達した。
     当時の台湾は衛生状態が非常に悪く、多種の疫病が蔓延していた。特に飲み水の病原菌汚染が酷く、「台湾の水を5日間飲み続けると死ぬ」とまで言われていた。そこで後藤新平が近代的な上下水道を完成させた。また、台湾南部の乾燥と塩害対策として、八田與一が烏山頭ダムと用水路を建設した。この八田の功績に対して、現在でも八田の命日には毎年地元住民による感謝と慰霊が行われている。
     太平洋戦争が勃発すると、台湾は日本の南方進出の前哨基地として重要戦略拠点として位置づけられる。軍需に対応すべく台湾の工業化が図られ、水力発電所を初めとするインフラ整備もこの時期に積極的に行われた。
     社会面では当初は植民地としての地位にあった台湾であるが、日本国内で大正デモクラシーが勃興する時期に台湾でも地方自治要求が提出され、台湾人としての権利の主張が行われている。これらは台湾議会設置請願運動となって展開された。しかし、これが実った時期は、日本統治時代末期の1935年であった。この1935年に地方選挙制度が施行されるようになり、台湾においても地方選挙が行われ地方議会が開かれることとなった。

中華民国占拠時代(1945年 - 1996年)
    台湾国民政府時代
    1949年12月7日:蒋介石、台湾において国民政府を再稼動し、実効統治区域内で戒厳を発令。
    1950年1月:蒋介石、総統職に就任。政府の活動が本格化。
    1952年4月28日:サンフランシスコ講和条約(1951年9月8日調印)の発効と日華平和条約の調印(8月5日発効)。これらの条約により、日本は台湾の権利、権原および請求権を保持しないことを宣言(ただし、両条約とも台湾の帰属先を明言したものではない)。中華民国政府と日本の国交が成立。
    1958年:金門県で、中国人民解放軍との間に八二三砲戦が勃発。
    1971年10月25日:国際連合総会にて、国際連合総会決議2758が可決され、「中国」の代表権を喪失。同時に国際連合から脱退。
    1972年:日本国と中華人民共和国の国交樹立により日華平和条約が失効。日本との国交を断絶。
    1975年4月5日:蒋介石総統死去。1978年に息子蒋経国が跡を継ぎ総統となる。
    1979年12月:美麗島事件が勃発。
    1987年:台湾島で戒厳を解除、その後に他地域でも順次解除。
    1988年1月:蒋経国総統死去。李登輝が総統代行に就任。
      李登輝
    1990年5月:李登輝が正式に総統に就任。


民主化時代(1996年 - 現在)
    1996年3月23日:直接選挙による総統選出が実施され、李登輝が当選。
    2000年:総統に民主進歩党の陳水扁が選出され、中国国民党が初めて野党となる。
    2002年:台湾・澎湖・金門・馬祖個別関税領域として、世界貿易機関に加盟。
    2004年:陳水扁が民選総統として初めて再選される。
    2005年:連戦国民党主席が中華人民共和国を訪問。胡錦濤共産党総書記と1945年以来60年ぶりの国共首脳会談を行う。
    2008年:総統選で中国国民党主席の馬英九が民進党の謝長廷を破って当選し、国民党が8年ぶりに政権を掌握。
    2012年:馬英九が総統に再選される。
      蔡英文
    2016年:蔡英文、中華民国総統に就任した
    2020年:2020年総統選で1996年の直接選挙以来過去最多の得票数の8,170,231票で中国国民党の韓国瑜、親民党の宋楚瑜を破り、再選を果たす
    2020年5月20日:中華民国総統2期目をスタートさせ、また同日、民主進歩党の主席に復帰した。


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