義和団事件事件の背景と顛末日清戦争以後、弱体ぶりを露呈した清朝に対して列強各国は各種の利権獲得など、進出の動きを強めることとなった。さながら中国は帝国主義国の草刈り場の観を呈することとなった。 このことで、列強帝国主義の抑圧は直接民衆に降りかかり、排外主義の高まりを促した。そうした背景の中で、農村各地の民間結社が、義和団運動となって、連鎖的に排外活動の色彩を帯び、暴徒化し、都市部では、電信線や鉄道など広く外国に由来する事物を破壊するようになった。こうした事態を各国は、千載一遇のチャンスととらえ、居留民保護を名目に北京へ派兵した。 これに対して清朝内部では、列強がこれを機に中国分割を実行することを危慎する意見が台頭し、各国軍との軍事衝突が発生した。これを事実上の開戦と理解した西太后は1900年 6 月宣戦を発し、ここに事態は英・仏・米・独・奥 ( オーストリ ア ) ・伊・露・日の 8 ヵ国連合軍と清朝との戦争に発展した。これが義和団事件である。 これを映画化したのが、「北京の55日」という映画である。チャールトン・ヘストン主演だった。義和団は映画では悪役であるが、今日の中国では義賊として、半ば英雄視されている。 事件の結末 8 ヵ国連合軍は清朝正規軍および義勇兵に編入された義和団との戦闘を継続し、同年 8 月に北京を攻略・占領し、西太后らは西安に逃れた。 その後は李鴻章が講和交渉の任にあたり、 1年近くをかけて 1901 年 9 月に北京議定書が成立した 。 これにより、清朝は莫大な賠償金をを39 ヵ年にわたって支払うなど、重い代償と引き替えに講和は成立した。 このことはこうした事態を招いた自らの「後進性」の直視とともに、徹底した改革の必要性が西太后以下、政府当事者から在野の知識人に至る社会指導層の共通認識となっていった。 しかし、時すでに遅しで、慎重にはこれに対応する力はもう残されてはいなかった。 詳しい説明は 【義和団事件】 ☜ をクリックしてください |
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2015年11月17日火曜日
「義和団事件」:日清戦争後の民衆の蜂起は中国を更に苦しめる
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