明朝中国を支配していた元の力が弱まり、国は乱れ群雄割拠の時代が訪れる。この中で頭角を現したのが、貧農出身の李元璋であった。一方ヨーロッパでは、大航海時代を迎え、競って植民地を得ようと大航海に乗り出す。では、明代という時代はどんな時代であったろうか? 明の前身の元の時代には、アジアからヨーロッパにまたがる大帝国が出現した。このモンゴル人の活発な征服意欲によって、ヨーロッパ文明とアジア文明は、かき回され東西文明の交流は活発になった。加えて大航海時代の到来により、海域の交易も活発になった。また中国国内では、江南の農業生産が大きな高まりを見せ、元時代に掘削された江南と大都を結ぶ運河によって、国内の生産物の流通も促された。 明は江南に依拠して国を立ち上げたこともあり、元のこうした生産の仕組みを受け継ぎ発展させた。明はさらに清にその生産力と仕組みをそのまま引き渡していくことになる。 |
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中国百科検定も今年で3回目となり、ますます充実してきているようです。
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2014年12月1日月曜日
「中国百科攻略ノート・歴史編」 明朝 P194をアップしました
2014年10月9日木曜日
「中国百科 歴史編」 アヘン戦争 P208をアップしました
アヘン戦争イギリスは、インド農民にイギリス製綿布を消費者させ、代わりにアへンを生産させ、そのアヘンを中国に密輸するという最もあくどい三角貿易を行うようになった。このため中国ではアヘンの中毒が蔓延すると同時に、アヘンの代価としての銀が多量に流出し、銀の代価が高騰し、中国の経済に深刻な打撃を与えた。清朝はこれを阻止するため、禁輸措置などを行ったが、イギリスは中国に戦争を仕掛け、アヘン戦争が勃発した。皇帝道光帝は厳禁論をとり、林則徐を欽差大臣として広州に派遣した。1839年3月、彼は広州でアへンの販売と吸飲を厳禁する布告を出し、官吏・軍人の綱紀を粛正した。また、外国商館の封鎖をおこない、イギリスの商務監督官チャールズ・エリオッ卜を監禁し、約二万箱のアへンを没収して、これを石灰で処理して海へ流し捨てた。 イギリスはこの処置を財産侵害だとし、1840年6月、イギリス艦隊 を派遣し、アへン戦争が始まったのである。 私は、この事件はイギリスが犯した世界史上まれに見る悪行と言わねばならないと考えている。 詳しくは 「アヘン戦争」 ☜ をクリックしてください。 |
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2014年9月2日火曜日
「中国百科攻略ノート・歴史編」 隋唐時代をアップしました
2014年8月15日金曜日
「中国共産党簡史」に見る辛亥革命の評価をアップしました。
番外資料編:中国の辛亥革命の評価については、日本でも盛んに論じられている。しかし外国から見ていろいろ論評するのではなく、中国国民がこれをどう見るかが非常に重要だと考える。 |
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