2015年10月31日土曜日

国民政府と蒋介石の歴史的評価の見直しが進む

国民政府と蒋介石

蒋介石を祀る中正紀念館
1925年5月には上海で五・三○運動が始まって反帝国主義、民族主義の運動の高揚を背景に、蔣介石は広州の軍閥を駆逐し、国民政府を樹立した。これから、武漢、南京、重慶、台湾と転々としながら長く続いた。従来はその反共主義、対日妥協政策などが厳しく批判されてきた。蒋介石はその中で一貫して権力の中枢の座にあり、良くも悪くも彼を抜きにして国民政府は語ることができない。
 そして中国国内では近年その見直しが進んでいる。国民政府の時代の中には、その反共主義的なかたくなな態度から、長い間中国を分断に導き、近代国家としての出発を大きく遅らせたなどのマイナスの側面も大きい反面、国共合作の時代もあり、中国共産党と協力して対日戦線で勝利したことや、中国の主権の回復、経済発展などに功績を残すなどのプラスの側面もあり、再評価が進んでいる。

国民政府と蒋介石  ☜ 詳しい説明はこちらをクリックしてください

2015年10月4日日曜日

明朝の成り立ち

明朝の成り立ち

 明は1368年 - 1644年に元のあと中国を支配した王朝である。

  中国史上で平民から身をおこして王朝の創業主となったのは、漢高祖と明太祖の二人だけである。貧農のみなしごに生れた
明の初代皇帝 朱 元璋
朱元璋は飢饉から免かれるために仏寺に入り、托鉢僧として流浪するうちに、文字をおぼえ詩文までつくれるようになった。
 この点では文字が読めなかった漢高祖にくらぺると知識人であったが、太祖は漢高祖を崇拝し、軍事・政治のやり方をすっかり手本とした。しかし漢高祖の性格は明るく、功臣からも敬愛されていた。
 明太祖の性格は暗く、底知れぬ残酷さによって功臣に恐怖をあたえた。この暗さが明王朝の政治に大きな陰影を投じたことは争えない。ここではその太祖の性格の暗さが明朝の政治には暗い影を落す?
 明の皇帝は初代の洪武帝と2代目の建文帝から力ずくで王位を奪い取った永楽帝の2人だけが傑出していて、あとは暗君であったようで、この近代に橋渡しをすべき大事な時に宦官が政治を左右したということは中国の最大の不幸というべきかもしれない。

明朝異聞  ☜ 詳しい説明はこちらをクリックしてください