元寇と日本とアイヌ元との関係では日本にとっては国の開闢以来の出来事として、元寇の襲来を上げなければならない。元の時の皇帝フビライはマルコポーロの感化もあり日本を服従させたいと考えていた。日本の北条政権に対し、6度にわたり朝貢をするよう使節を送ってきていた。にもかかわらず、時の執権北条時宗はそれをことごとく拒み、最後にはその使者を切って捨ててしまった。かくして外交上のルートは完全に途絶え、元は日本を服従させるべく大量の軍隊を日本に送り込んだ。これが文永弘安の役である。この時に神風が吹き蒙古軍が大きな痛手を被ったとされているが、少なくとも文永の役のときには、そのような大きな嵐があったという記録は蒙古側にもなく、その証左もないようである。日本の状況 その時代は鎌倉幕府で権力は北条氏が握り、全国を守護、地頭という封建領主に割り当て、封建制度は確立していたといわれる。また幕府直轄の御家人集団が、全国に配置され幕府から要請のあったときは「いざ、鎌倉」の号令の下、はせ参じるようになっている。この封建制度が完備していたことが、蒙古襲来に対し大きな力を発揮したといわれている。 アイヌとの闘い ところで、文永の役の十数年前に元は樺太に兵を送り込みアイヌと戦闘を交えていることは日本ではほとんど知られていない。あの強大な元を相手にアイヌが約10年もかけて果敢に戦ったことは、驚嘆に値することではなかっただろうか。このことについては鎌倉幕府には何も情報を持っていなかったようである。このように当時の日本民族にとって蝦夷の地は最果ての地であり、全く見えていなかったのかもしれない。 |
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