ラベル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年7月20日水曜日

中国外史:元寇と日本とアイヌは互角に戦いを繰り広げていた

元寇と日本とアイヌ

 元との関係では日本にとっては国の開闢以来の出来事として、元寇の襲来を上げなければならない。元の時の皇帝フビライはマルコポーロの感化もあり日本を服従させたいと考えていた。日本の北条政権に対し、6度にわたり朝貢をするよう使節を送ってきていた。にもかかわらず、時の執権北条時宗はそれをことごとく拒み、最後にはその使者を切って捨ててしまった。かくして外交上のルートは完全に途絶え、元は日本を服従させるべく大量の軍隊を日本に送り込んだ。これが文永弘安の役である。この時に神風が吹き蒙古軍が大きな痛手を被ったとされているが、少なくとも文永の役のときには、そのような大きな嵐があったという記録は蒙古側にもなく、その証左もないようである。


日本の状況
 その時代は鎌倉幕府で権力は北条氏が握り、全国を守護、地頭という封建領主に割り当て、封建制度は確立していたといわれる。また幕府直轄の御家人集団が、全国に配置され幕府から要請のあったときは「いざ、鎌倉」の号令の下、はせ参じるようになっている。この封建制度が完備していたことが、蒙古襲来に対し大きな力を発揮したといわれている。 

アイヌとの闘い
 ところで、文永の役の十数年前に元は樺太に兵を送り込みアイヌと戦闘を交えていることは日本ではほとんど知られていない。あの強大な元を相手にアイヌが約10年もかけて果敢に戦ったことは、驚嘆に値することではなかっただろうか。このことについては鎌倉幕府には何も情報を持っていなかったようである。このように当時の日本民族にとって蝦夷の地は最果ての地であり、全く見えていなかったのかもしれない。




詳しい説明は 【元寇とアイヌ】 ☜ をクリックしてください

参考文献*************

******************


2015年8月17日月曜日

「中国百科ノート 歴史編」 唐末~宋の時代と北方民族の国家 P190 をアップしました

唐宋の変革の時代をアップしました

唐の滅亡
 さしもの巨大な勢力を誇った唐も、755年の安禄山、史志明による安史の乱、そして9世紀後半の黄巣の乱により、907年節度使の朱全忠に滅ぼされた。

五代十国の始まり
 その後比較的短期間ではあるが、五代十国という5つの王朝と10余りの地方政権が林立する分裂と混乱の時代に突入する。そしてこの間、貴族層は没落し、農業技術の発達、産業の発展などで新興地主層が台頭し、政治社会、経済に大きな変化が見られた。(一般的に「唐宋変革」といわれる。)

宋の建国
 やがてこの混乱の中で、五代後周の将軍であった趙匡胤が960年に皇位に即位して以来、宋(北宋)を建国し、中国を統一した。この宋代に伝統中国社会の基礎が築かれたといわれる。
 またの7,80年の混乱の中では、それまで漢民族に辺境に押しやられていた民族が、長い間に力をつけ、漢民族に対抗する力をつけ独自の民族自身の国を建立した時代であった。それも単に中華の一地方を征服するだけではなく、強大な世界帝国を建立するまでになった国もいる。彼らはいずれも漢民族の優れたとこをを学び取り、統治する術を学んでいった言えるのではないか。


  唐末から宋の建国までの混乱の時期は何を準備したか  ☜ 詳しい説明はこちらをクリックしてください