2020年7月10日金曜日

日清戦争前夜の世界は弱肉強食の世界だった


日清戦争前夜の世界情勢

弱肉強食の世界
日清戦争は、欧米列強による植民地争奪戦の中で起きた

 アメリカヨーロッパで、19世紀後半から20世紀全般にかけ、第2次産業革命が起こり、電気、石油をエネルギーとする重工業化の波が押し寄せた。
 列強各国は、新たな消費地を求めアジア・アフリカに進出し、強盗的手段で、植民地化にまい進し、下記のような植民地争奪戦が行われた。

 日本も明治維新を成し遂げ、近代国家の仲間入りを果たそうとし、富国強兵策を取り入れ、台湾、朝鮮、中国へと手を広げていった。
 一方中国はある意味清朝が巨大でありすぎたため、近代化の波に乗り遅れ、さらには巨大な消費地を抱えていたために列強各国の絶好の餌食となった。しかし中国がアフリカと違い植民地に分割されるのを免れたのは、それまでに高い文化を誇り、世界に冠たる位置を維持していたからである。


20世紀初植民地Map
By Andrew0921


世界列強によるハゲタカ的世界の簒奪の背景や動機と考えられる出来事
  1. アフリカを奴隷の供給地と見るのではなく、地下資源などの工業原料供給地と、自国の工業製品の市場として見るようになった。
  2. 普仏戦争・・1870~71年ドイツ統一をめざすプロシャと、これを阻もうとするフランス(ナポレオンによる第2帝政)との間で行われた戦争。
    この戦争後フランスは第2植民地帝国として、世界各地の植民地化に乗り出した。
  3. ヨーロッパにおける世界的大不況(1873年から1896年にわたる世界的な構造不況である)により市場が萎縮していたこと 
  4. 第2次産業革命の結果、大量消費先を作り出す必要があったこと・・第2次作業革命とは、ドイツやアメリカで起こった産業革命は、石油や電力をエネルギー源とする鉄鋼・機械・造船などの重工業や化学工業中心とした。
  5. アジアへの侵略
南アメリカと植民地
 南アメリカが19世紀後半の列強による植民地化の毒牙から逃れたのは、南アメリカにおいては、北アメリカにおいてアメリカがイギリスから独立していたこと、さらに19世紀前半、フランス革命の影響を受けて、多くの国で独立を成し遂げていたことが幸いしたことも大きいと考えられる。

 さらに、1823年、アメリカ第5代大統領モンローによる、「モンロー宣言」がだされ、
  1. アメリカ大陸は,今後ヨーロッパ諸国によって将来の植民の対象と考えられるべきではないこと,
  2. アメリカはヨーロッパの政治に介入しないこと,
  3. ヨーロッパ諸国の圧迫その他の方法による西半球諸政府に対するいかなる干渉もアメリカへの非友好的意向の表明とみなすこと
  4. 要はアメリカ大陸に手を出すなという宣言も大きく影響していたと考えられる。

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2020年7月5日日曜日

晋・南北朝:魏呉蜀の三国時代の後350年ほど続いた。北朝を中心に胡族と漢族の融合が進み新たな文化が生み出された

晋・南北朝:北朝を中心に胡族と漢族の融合が進み新たな文化が生み出された

晋・南北朝「貴族の時代」

一部の氏族が高級官僚を独占し、中央官僚を独占した一部の氏族による広大な荘園化が進んだ


南北朝とはどのような時代であったか?
 魏・呉・蜀の 3 国に分裂した中国を再統ーしたのは、魏から禅譲を受けた晋であった (265年 ) 。しかし、王族の内紛と異民族の侵入によって、 30 年あまりで晋の統ーは崩壊した。
 晋の一族の司馬睿は江南に逃れて建康 ( 現在の南京 ) で即位し、晋を復興した。これを東晋 (317ー 420 年 ) と呼び、それ以前の西晋と区別する。

南北朝時代
 その後、この東晋を受け継いだ形で宋・斉・梁・陳と禅譲を繰りしながら 250 年以上にわたって華南を支配した。これを南朝と呼ぶ。
  一方、華北では、304年前趙(趙)の建国より439年北魏(魏)が統一するまでの間、五胡 ( 匈奴・鮮卑・羯・氐・羌) が政権を建てたが、最終的に鮮卑族が建てた北魂が統一する(AD439年)。この間のことを五胡十六国時代と呼ぶ。
 華北では胡族と漢族の融合が進み新たな文化が生み出された。一部の氏族が高級官僚を独占していたが、特に華南では、貴族による大規模な荘園が進んで、江南の開発が進んだ。


貴族の時代
 魏晋南北朝に魏の九品中正を経て貴族社会が形成されたと一般的に言われている。かれらはいわゆる門閥貴族であり、同じように血統的に特権的な地位を継承した。彼らは律令制の下でも蔭位の制などによって特権的な地位を維持し、荘園を経済的な基盤として支配的な地位を守っていた。
 しかし、この制度は、隋にはじめる「科挙」により、貴族が官僚制度の中に組み込まれ、貴族はその力を失う。宋代には、現地で佃戸を抱える新興地主であり、かつ知識人として官僚となっていった科挙合格者の士大夫がその力を持つことになる。




2020年7月4日土曜日

文化大革命は毛沢東が発動した政治運動である。これを許した体制の後進性が清算されていない恐ろしさが顕在化

文化大革命

文化大革命は中国の後進性を体現した
 文化大革命 ( プロレタリア文化大革命、略称は文革 ) は 1966 年に毛沢東が発動した政治運動であり、中国の政治・経済・文化等あらゆる方面に深刻な混乱と停滞をもたらした。その背景には、中国が米ソ2 超大国と対立するという緊迫した国際情勢があり、また それとリンクした毛の国内外の情勢に対する過剰な危機感があった。
 「中国共産党簡史」によると、毛沢東の発動したこの”大革命”の出発点は資本主義復活を防止して、党の純潔性を維持し中国自身の社会主義建設の道を追及することであった。
 ただ彼は党と国家政治状況に対して既に非常に大きな間違った固定概念に囚われていた。
発動の背景
  • キューバ危機の際、ソ連が当事国の了解を得ぬまま勝手にアメリカと手を打ったことに対する不信感が根強くあった。中国もソ連修正主義の手によって、アメリカと手を打たれるのではないかという恐れを抱いていた。
  • 中国が米ソ2 超大国と対立するという緊迫した国際情勢があり、また それとリンクした毛の国内外の情勢に対する過剰な危機感があった。
  • たとえば、最悪の場合重要施設は内陸へ移して守るべく、1964 年以降、西南地域の奥地に工場を移転・新設する「三線建設」が推進された。
  • ソ連との国境紛争の危機も高まり、長い国境を有するソ連への危機感が次第に増大していった。
  • 国内においては、自らの数々の政策の失敗に対する国民の批判の高まりもあり、毛は焦りを感じていた。
  • なにより、毛には中国人民と中国共産党に対する根強い不信感があり、ある意味強い強迫観念にとらわれていた。
文革の過程
  1. 前期 :
      運動はまず、ブルジョア的思想・文化に対する闘争として開始された 。 1965年11月、新編歴史劇「海瑞罷官」に対する批判が文革の口火となった。 1966年 5月、康生・陳伯達・張春橋、そして毛沢東の妻・江青 ( のちの「四人組」 ) を中心メンバーとする中央文革小組が成立し、文革が本格的に開始する。
     毛は、思想的にも深いものはない自己顕示欲が強いだけのエキセントリックな妻とその側近を抜擢し、国防部長の林彪を味方につけた 。
    さらに、毛を熱狂的に信奉する若者たちからなる紅衛兵を煽って、政府や党機構を破壊させた。
     党が結党以来、革命闘争や抗日戦争の中で累々と積み上げてきた人民との信頼関係はずたずたにされ、よき風習も紅衛兵の泥靴で踏みにじられた。私は毛沢東の最大の罪悪はここにあると思っている。
     そしてここにこそいまなお払拭できていない中国の民主主義の後進性があると考えている。
    この期間を通じ、林彪は力を伸ばし、1969年の第九回党大会では毛の後継者に指名された。

  2. 中期
     毛の文革の発動の狙いは自らの政策の失敗に対する国民の批判の目をそらすことにあり、「反ソ」を煽り立てることにより、中ソ間の緊張はいよいよ高まった。対米接近が模索されるようになったが、それを主導したのは周恩来ら実務官僚グループであり、林彪グループは孤立し、失脚していった ( 林彪事件 ) 。

  3. 後期
      1971 年のキッシンジャー訪中、 1972 年 2月のニクソン訪中で米中の関係改善が実現し、日本とも同年 9月、田中角栄首相が訪中し、国交を正常化した。
    こうして国際緊張の緩和が進み、これを背景に国内では 周恩来と復活した邓小平らが秩序を回復し、経済再建措置をとろうとした。 四人組は、1976年 9月毛沢東が亡くなり、後ろ盾がなくなるとまもなく失脚し、文革はようやく終結した 。

結び この教科書では、文化大革命の要因を以下のように見ている。文化大革命そのものについては、それでいいのかもしれないが、しかしもう一歩突っ込んだ分析がほしいところである。なぜなら文革をどう見るかが、現在の中国を如何に判断するかにかかわってくると思うからだ。
 「文革は毛沢東が起こした権力闘争とみなされることが多いが、それだけにとどまらない要素が複雑に絡んでいた 。 中国全土が 10 年にもわたり 動乱状態に陥ったのは、建国以来の社会主義建設が各方面において矛盾を蓄積していたからであり、民衆の不満が一気に爆発したのも一因であった 。」

中国共産党の「党史研究室」というところが、発行した「中国共产党简史」という本の中で、文革の総括に触れている。
    文化大革命については、全面的かつ長時間の左傾の誤りは毛沢東の主要な責任に負うところが大きい。ただしこの誤りは結局は中国の社会主義への道の探索中に犯した誤りである。毛沢東はいつもわれわれ党内と国家生活の中に存在していた欠点に注意していた。しかし晩年、多くの問題についてはその上正確な分析ができなかった。しかもさらに文化大革命の中で、敵とわれわれの是非が混沌としていた。・・彼は終始自己の理論と実践がマルクス主義的であると認識していた。強固なプロレタリア階級の独裁の必要欠くべからざるところであると考えており、これが彼の悲劇の所在である。毛沢東は全ての局面でも文化大革命的な誤りを堅持した。但し制止と糾正もまた誤りを犯した。

 10年にも及ぶ全国家レベルで犯した誤りの総括にしてはあまりにもお粗末ではないだろうか。毛沢東の個人的な誤りもさることながら、なぜその誤りを党として是正できなかったのか。党としての構造的欠陥を持っていたのではないのか。毛沢東をあそこまで祭り上げたのは誰なのか。長年にわたる失政にも拘らず、その真の原因を曖昧にし、個人的崇拝を強めた結果ではないのか。中国は歴史から学べと日本によく言う。しかし自らはどうなのか?襟を正すべきではないのか。誤りを認めることは本当に勇気のいることである。そのことにより予期せぬ事態を生むかもしれないことはよく分かる。だからこそここまで事が大きくなる前に、ここの事象が現れた時点で、真摯に総括し、誤りを是正することが不可欠だと思う。むかし、中国軍は人民の財産は鉛筆一本取らないという気高きモラルを具えていたと聞いている。それが今ではどこに行ったのだろう。
 日本ももちろん過去に犯した過ちは率直に謝るべきである。口先だけではなく具体的行動に示すべきである。日中両国の真摯な態度が今何より求められるべきではないのだろうか。
 今現時点で何をなすべきか? それは、直ちに過去の総括を真摯にし、今の政策と姿勢を少しずつ、是正して行くことではないだろうか。まずは一番分かりやすいのは、汚職、腐敗構造を改めることだろう。そうすることによって、中国の権威は高まり、アジアばかりではなく世界中の人々からもろ手を挙げて歓待されるようになるだろう。今の中国はそのように方向転換しても、国家が揺らぐような柔な状態にはないだろう。
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台湾の歴史 長い間翻弄され続けてきた台湾が、ようやく自分の足で歩き始めた

台湾の歴史 長く先住民が支配していたが、1600年代初頭に世界に開かれるようになった

 「台湾」という用語について
 ここでいう台湾は、一般的概念で言う台湾を言うのであり、中国政府が主張する「一つの中国」でいう「台湾」を指しているわけではない。現在の複雑な状況の中では、政治的にあまりシビアな線引きをしない態度をとることをお許し願いたい。
 台湾の歴史
 「一つの中国」のスローガンの下に、台湾が国際社会の第一線の舞台に姿は見せなくなったが、現実の社会では、その姿は一層輝きを増している。  台湾の歴史は古く、古く氷河期の時代には、既に大陸から人類が移住し、文明の花を開かせたことは証明されている。しかし、台湾が歴史の表舞台に登場してくるのは、明朝の「大航海時代」以降のことであるといって差し支えない。ここでは、中国歴史ほど大きく知られていない「台湾の歴史」を概括的に振り返ることにしよう。
さらに地政学的な観点から、台湾の地理についてぜひ「中国百科 地理編「台湾」についてもぜひご参照願いたい。
台湾の歴史
台湾は大きく次の5つ時代区分に分かれるとしている。以下台湾の歴史をこの歴史区分に基づき、大まかに振り返ってみたい。
先史及び原住民時代 (1624年以前)
    地質学の研究によれば今から300万年から1万年前の更新世氷河期の時代、台湾は中国大陸と地続きであり、大陸から人類が台湾に移住し、居住していたと考えられている。
    新石器時代以降の先史文化は台湾南島語系民族によるものであり、現在の原住民が台湾に定住する以前に、別の族群が台湾に居住していた可能性を示している。
    台湾原住民はオーストロネシア語族に属し(注オーストロネシア語族については、「中国百科攻略ノート 民族宗教編」 高山族とモンクメール語群の諸民族をクリックしてください。)、古くは中国大陸南部に居住していたと考えられている。その後北方漢民族などの圧力を受けて台湾に押し出され、そこから南太平洋一帯に進出していったという説が有力である。しかしその足跡は未だ未解明な部分が多い。

オランダ占拠時代(1624年 - 1662年)
    16世紀の明朝時代になると、大航海時代にあったヨーロッパ各国から多くの人々が来航するようになり、台湾の戦略的重要性に気がついたオランダやスペインが台湾島を「領有」し、東アジアにおける貿易・海防の拠点としていった。そのために、日本への鉄砲やザビエルによるキリスト教伝来も、おそらくは台湾を経由してきたのだと思われる。
    また、そのころ日本の豊臣秀吉は「高山国」宛に朝貢を促す文書を作成し、原田孫七郎という商人に台湾へ届けさせた(高山国とは実質的には存在せず朝貢の目的は果たせなかった)。
    台湾島の領有を確認できる史上初めての勢力は、17世紀初頭に成立したオランダの東インド会社である。東インド会社はまず明朝領有下の澎湖諸島を占領した後、1624年に台湾島の大員(現在の台南市周辺)を中心とした地域を制圧して要塞を築いた。だが、台湾の東インド会社は1661年から「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功の攻撃を受け、進出開始から37年で台湾から全て駆逐されていった。

明鄭統治時代(1662年 - 1683年)
    明が完全に滅んでも、「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保するために台湾のオランダ・東インド会社を攻撃し、1662年に東インド会社を台湾から駆逐することに成功した。台湾の漢民族政権による統治は、この鄭成功の政権が史上初めてである。
    歴史上の鄭成功は、目標である「反清復明」を果たすことなかったが、台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実であるため、鄭成功は今日では台湾人の精神的支柱(開発始祖)として社会的に極めて高い地位を占めている。 なお鄭成功は清との戦いに際し、たびたび江戸幕府へ軍事的な支援を申し入れていたが、支援は実現しなかった。しかしこの戦いの経緯は日本にもよく知られ、後に近松門左衛門によって国性爺合戦として人形浄瑠璃化された。

満清支配時代(1683年 - 1895年)
     清は台湾島を領有することに積極的ではなかったが、最終的には軍事的観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置し、福建省の統治下に編入した(台湾道(中国語版)、1684年-1885年)。ただし清朝は、台湾を「皇帝の支配する領地ではない」、「中華文明に属さない土地」として統治には永らく関心を示さず、特に台湾原住民については「化外(けがい)の民」として放置し続けてきた。その結果、台湾本島における清朝の統治範囲は島内全域におよぶことはなかった。なお、現在、中華民国政府と中華人民共和国は、台湾のみでなく釣魚島(尖閣諸島)にも清朝の主権が及んでいたと主張している。

    清朝編入後、台湾へは対岸に位置する中国大陸の福建省、広東省から相次いで多くの漢民族が移住し、開発地を拡大していった。そのために、現在の台湾に居住する本省系漢民族の言語文化は、これらの地方のそれと大変似通ったものとなっている。台湾南部から始まった台湾島の開発のフロンティア前線徐々に北上し、19世紀に入ると台北付近まで本格的に開発されるようになった。この間、清朝では女性の渡航を禁止したために、台湾には漢民族の女性が少なかった。従って漢民族と平地に住む原住民との混血が急速に進み、現在の「台湾人」と呼ばれる漢民族のサブグループが形成された。また、原住民の側にも平埔族(へいほぞく)と呼ばれる漢民族に文化的に同化する民族群が生じるようになった。
     19世紀半ばにヨーロッパ列強諸国の勢力が台湾にも及ぶようになった。
     1871年、宮古島島民遭難事件が起こった。これは、宮古、八重山から首里王府に年貢を納めて帰途についた船4隻のうち、宮古の船の1隻が、台湾近海で遭難し、台湾上陸後に山中をさまよった者のうち54名が、台湾原住民によって殺害された事件である。日本政府は清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民(国家統治の及ばない者)」という返事があり、慎重の当地の範囲外との見解が示されため、日本の出兵の口実を与えてしまった。1874年には日本による台湾出兵(牡丹社事件)が行なわれた。 1884年 - 1885年の清仏戦争の際にはフランスの艦隊が台湾北部への攻略を謀った。
     清朝は日本や欧州列強の進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、台湾の防衛強化のために知事に当たる巡撫(じゅんぶ)職を派遣した上で、1885年に台湾を福建省から分離して台湾省(1885年-1895年)を新設した。台湾省設置後の清朝は、それまでの消極的な台湾統治を改め、近代化政策を各地で採り始めた。

     だが、1894年に清朝が日清戦争に敗北したため、翌1895年4月17日に締結された下関条約(馬關條約)に基づいて台湾は清朝から大日本帝国に割譲され、これ以降、台湾は大日本帝国の外地として台湾総督府の統治下に置かれることとなる。

日本統治時代(1895年 - 1945年)
     台湾が本格的に開発されたのは日本統治時代になってからである。
     1896年に三一法が公布され台湾総督府を中心とする日本の統治体制が確立した。「農業は台湾、工業は日本」と分担することを目的に台湾での農業振興政策が採用され、各種産業保護政策や、鉄道を初めとする交通網の整備、大規模水利事業などを実施し製糖業や蓬莱米の生産を飛躍的に向上させることに成功している。また経済面では専売制度を採用し、台湾内での過当競争を防止するとともに、台湾財政の独立化を実現している。
     また初期段階後、近代化を目指し台湾内の教育制度の拡充を行った。義務教育制度が施行され、台湾人の就学率は1943年の統計で71%とアジアでは日本に次ぐ高い水準に達していた。義務教育以外にも主に実業系の教育機関を設置し、台湾の行政、経済の実務者養成を行うと同時に、大量の台湾人が日本に留学した。 台湾の併合にあたり、台湾人には土地を売却して出国するか、台湾に留まり帝国臣民になるかを選択させた。
     1895年に台湾が大日本帝国に編入された時、併合に反対する台湾住民は、「匪徒刑罰令」によって処刑された。その数は3000人に達した。抗日運動は、1915年の西来庵事件(タパニ事件)で頂点に達した。
     当時の台湾は衛生状態が非常に悪く、多種の疫病が蔓延していた。特に飲み水の病原菌汚染が酷く、「台湾の水を5日間飲み続けると死ぬ」とまで言われていた。そこで後藤新平が近代的な上下水道を完成させた。また、台湾南部の乾燥と塩害対策として、八田與一が烏山頭ダムと用水路を建設した。この八田の功績に対して、現在でも八田の命日には毎年地元住民による感謝と慰霊が行われている。
     太平洋戦争が勃発すると、台湾は日本の南方進出の前哨基地として重要戦略拠点として位置づけられる。軍需に対応すべく台湾の工業化が図られ、水力発電所を初めとするインフラ整備もこの時期に積極的に行われた。
     社会面では当初は植民地としての地位にあった台湾であるが、日本国内で大正デモクラシーが勃興する時期に台湾でも地方自治要求が提出され、台湾人としての権利の主張が行われている。これらは台湾議会設置請願運動となって展開された。しかし、これが実った時期は、日本統治時代末期の1935年であった。この1935年に地方選挙制度が施行されるようになり、台湾においても地方選挙が行われ地方議会が開かれることとなった。

中華民国占拠時代(1945年 - 1996年)
    台湾国民政府時代
    1949年12月7日:蒋介石、台湾において国民政府を再稼動し、実効統治区域内で戒厳を発令。
    1950年1月:蒋介石、総統職に就任。政府の活動が本格化。
    1952年4月28日:サンフランシスコ講和条約(1951年9月8日調印)の発効と日華平和条約の調印(8月5日発効)。これらの条約により、日本は台湾の権利、権原および請求権を保持しないことを宣言(ただし、両条約とも台湾の帰属先を明言したものではない)。中華民国政府と日本の国交が成立。
    1958年:金門県で、中国人民解放軍との間に八二三砲戦が勃発。
    1971年10月25日:国際連合総会にて、国際連合総会決議2758が可決され、「中国」の代表権を喪失。同時に国際連合から脱退。
    1972年:日本国と中華人民共和国の国交樹立により日華平和条約が失効。日本との国交を断絶。
    1975年4月5日:蒋介石総統死去。1978年に息子蒋経国が跡を継ぎ総統となる。
    1979年12月:美麗島事件が勃発。
    1987年:台湾島で戒厳を解除、その後に他地域でも順次解除。
    1988年1月:蒋経国総統死去。李登輝が総統代行に就任。
      李登輝
    1990年5月:李登輝が正式に総統に就任。


民主化時代(1996年 - 現在)
    1996年3月23日:直接選挙による総統選出が実施され、李登輝が当選。
    2000年:総統に民主進歩党の陳水扁が選出され、中国国民党が初めて野党となる。
    2002年:台湾・澎湖・金門・馬祖個別関税領域として、世界貿易機関に加盟。
    2004年:陳水扁が民選総統として初めて再選される。
    2005年:連戦国民党主席が中華人民共和国を訪問。胡錦濤共産党総書記と1945年以来60年ぶりの国共首脳会談を行う。
    2008年:総統選で中国国民党主席の馬英九が民進党の謝長廷を破って当選し、国民党が8年ぶりに政権を掌握。
    2012年:馬英九が総統に再選される。
      蔡英文
    2016年:蔡英文、中華民国総統に就任した
    2020年:2020年総統選で1996年の直接選挙以来過去最多の得票数の8,170,231票で中国国民党の韓国瑜、親民党の宋楚瑜を破り、再選を果たす
    2020年5月20日:中華民国総統2期目をスタートさせ、また同日、民主進歩党の主席に復帰した。


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    2017年12月16日土曜日

    文化大革命の本質は毛沢東の、毛沢東による、毛沢東のための権力闘争

    文化大革命

    文化大革命の概要

    文化大革命 ( プロレタリア文化大革命、略称は文革 ) は 1966 年に毛沢東が発動し、江青の4人組の失脚により終結した10年に及ぶ政治運動であった。

    文革の背景 

       当時の中国は、朝鮮戦争での経済の立ち遅れと同時に、冷戦の下での中国包囲網、いくつかの重要施策の失敗に伴う国内の矛盾の激化、不満が増大していたことに加え、国内の封建的遺制が残存し、経済の進展を阻んでいた。
       さらに国際的には、キューバ革命やベトナム戦争におけるソ連との路線の違いが浮き彫りになり、中国の頭越しにソ連とアメリカが妥協して、中国を追い詰める危険性が危惧された。
    毛沢東


    文革の狙い 
     そこで毛沢東は、

    • 国内の封建的遺制の一掃
    • 米ソの国際協調による中国封じ込め政策の打破
    • 国際的包囲網に対抗しうる軍事体制の強化と整備
    • 国際協調路線を排除し、妥協を排除し党の純潔性を維持し中国自身の社会主義建設の道を追及する
    • 数々の失政による国内の不満を逸らし、独裁体制を確立する

    文革の過程


      • 前期 :
      • 運動はまず、ブルジョア的思想・文化に対する闘争として開始された 。 1965年11月、新編歴史劇「海瑞罷
        官」に対する批判が文革の口火となった。 1966年 5月、康生・陳伯達・張春橋、そして毛沢東の妻・江青 ( のちの「四人組」 ) を中心メンバーとする中央文革小組が成立し、文革が本格的に開始する。
         さらに、毛を熱狂的に信奉する若者たちからなる紅衛兵を煽って、政府や党機構を破壊させた。この期間を通じ、林彪は力を伸ばし、1969年の第九回党大会では毛の後継者に指名された。

      • 中期
         毛の文革の発動の狙いは自らの政策の失敗に対する国民の批判の目をそらすことにあり、「反ソ」を煽り立てることにより、中ソ間の緊張はいよいよ高まった。対米接近が模索されるようになったが、それを主導したのは周恩来ら実務官僚グループであり、その中で林彪グループは失脚していった ( 林彪事件 ) 。

      • 後期
          1971 年のキッシンジャー訪中、 1972 年 2月のニクソン訪中で米中の関係改善が実現し、日本とも同年 9月、田中角栄首相が訪中し、国交を正常化した。
        こうして国際緊張の緩和が進み、これを背景に国内では 周恩来と復活した邓小平らが秩序を回復し、経済再建措置をとろうとした。 四人組は、1976年 9月毛沢東が亡くなり、後ろ盾がなくなるとまもなく失脚し、文革はようやく終結した 。
       
      結び
       この教科書では、文化大革命の要因を以下のように見ている。

        「文革は毛沢東が起こした権力闘争とみなされることが多いが、それだけにとどまらない要素が複雑に絡んでいた 。 中国全土が 10 年にもわたり 動乱状態に陥ったのは、建国以来の社会主義建設が各方面において矛盾を蓄積していたからであり、民衆の不満が一気に爆発したのも一因であった 。」

      「中国共产党简史」: 中国共産党は文革をどう評価しているか(中国共産党、「党史研究室」発行)

        文化大革命については、全面的かつ長時間の左傾の誤りは毛沢東の主要な責任に負うところが大きい。ただしこの誤りは結局は中国の社会主義への道の探索中に犯した誤りである。毛沢東は全ての局面でも文化大革命的な誤りを堅持した。但し制止と糾正もまた誤りを犯した。

        詳しい説明は 【文化大革命】 ☜ をクリックしてください

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      2017年11月24日金曜日

      「百花斉放・百家争鳴」:文化大革命への序章であり、人民への重大な裏切り

      「百花斉放・百家争鳴」

      「百花斉放・百家争鳴」とは
        「百花斉放・百家争鳴」(あわせて「双百」とも言う。)は1956年から翌年にかけて、共産党が呼びかけた文芸・学術活動の多様化および言論自由化のスローガンである。1957年2月以降、党外に共産党への率直な批判を求めた。
       ところが、党の独裁を批判する意見が噴出。予想外の体制批判に驚いた党は、6月以降、発言者に「右派」のレッテルを貼り糾弾した(「反右派」闘争)。弾圧された知識人は55万人にも上り、これ以降、共産党批判は厳しく封じ込められたし、党に対する根強い不信が生まれた。

      共産党と民主党派の人々
       建国当初の民主党派の人々の役割
       建国当初は、民族ブルジョワ階級代表として民主同盟や民主建国会などの民主党派の人士も、国内の反動勢力との闘いに積極的に参加し、それなりに積極的役割を果たしていた。そして民主人士を含む知識人に対し、共産党は思想改造を呼びかけ、徐々に思想統制を進めた。多くの知識人が新しい社会に適応しようと積極的に応じていたし、党の方もそれほど急激な改革を望んではいなかったし、緩やかな改革を進めていたが、朝鮮戦争が終わり、冷戦が始まりしかも、中ソ紛争まで、起こってくるようになると、党は社会主義体制の急進化のために、人民内部の矛盾を速やかに解消し、次なる段階に進める必要が生じてきた。

       
      「人民内部の矛盾」

       1956年2月のフルシチョフによるスターリン批判は、反体制の高まりに発展する危機意識があったし、中国国内でも農村では農業合作社からの農民の脱退、都市では労働者のストライキ、学生の授業ボイコットなど、社会の不満が噴出しており、人民内部の矛盾を速やかに解消することに迫られていた。   緩やかな社会主義化のときは人民と党の間の軋轢はそれほどでもなかったが、社会主義化の速度が速くなると、両者の軋轢が次第に大きくなっていった。
        そこで双百の方針を打ち出し、人民内部の不満を吐き出させ、正しく処理しようとしたが、一部の民主的人士が激しく党を攻撃したため、共産党は態度を硬化させ、それまでの方針を一転して、民主党派の人々も含め「右派分子」のレッテルを貼り、弾圧に乗りだした。

      反右派闘争の結果とそのもたらしたもの

       「右派分子」のレッテルを貼られた人々は労働改造所送りになるなど政治的抑圧を受け続けたし、そのほかの人々も「右派」のレッテルを貼られるのを恐れ、上級の指示に盲目的に従うようになり、人々の言動は全体として、極左的に偏向していった。やがてそれは大躍進や文化大革命に顕著な流れを生み出していく。



      2017年11月9日木曜日

      日清戦争:中国の阿鼻叫喚の始まり日本の戦争立国への序章


      日清戦争

       日清戦争は、世界中に中国が、決して強大な国ではないことを、衆目にさらしてしまった。1894年に始まった日清戦争で、中国は為すところなく敗れ、1895年4月には、下関講和条約で、その屈辱的条件を呑まざるを得なかった。
       それから世界の帝国主義国の簒奪を受け、50年の長きに亘って、日本が太平洋戦争に敗れ、中国大陸から放逐されるまで、その国土は蹂躙され続けた。

      日本の帝国主義的野望牙をむく
      日本と清国の関係を約150年前に遡り時系列的に流れをつかむ

      すべての始まりは、1871年に日清修好条規が結ぼれて対等な内容で国交が樹立されたことから本格的に始まった

      手始めに台湾
      1. 1874年に台湾出兵
      2. 1879年には琉球処分を強行
      朝鮮に触手を伸ばす
        朝鮮を中国から切り離しにかかる
      1. 朝鮮をめぐり1875年に江華島事件を起こして開国を要求
      2. 1876年に日朝修好条規を締結
      3. 清国 壬午軍乱(1882年)・甲申政変(1884年)と相次いだクーデターへの介入、朝鮮の内政への関与
      4. 1894年に朝鮮で発生した東学党の乱(甲午農民戦争)・・日本にとり出兵 と清朝の影響力排除の格好の機会として利用された。ソウルに進軍した日本軍は親日政権を擁立
      本命の中国への攻略
      1. 直後に清国軍に対する攻撃を開始
      2. 1894年7月に日清戦争勃発
         陸海両面で展開された戦争は、まもなく日本側の全面的な勝利へと帰結した。
      3. 陸上では清国軍が朝鮮より退却し、追撃する日本軍が1894年10月に鴨緑江を渡って満州へと進撃
      4. 11月に遼東半島先端の旅順を占領した。そして海上では、9月の黄海海戦で東洋有数と称された北洋艦隊に勝利
      5. 1895年1月 その本拠地の山東半島威海衛を攻撃、2月陥落させた。
      6. 清朝側は講和を受け入れ、李鴻章を日本に派遣して伊藤博文らと下関で交渉開始させた。
      7. 1895年4月に下関条約(講和条約)
      下関条約と東アジア情勢の転換
       こうしては、近代東アジア史の重大な転換点となった。伝統的な中国を中心とした地域秩序は完全に解体し、かわって日本が優位に立ったものの、こうした状況は中国そして朝鮮に対する欧米列強の進出競争をもたらした。そうした結果、アジア全域で植民地のほしいがままに置かれることとなる。

      中国自身の影響
       歴史的な周辺諸国に対する宗属関係は完全に撤廃された。中国のアジアにおける地位は劇的な変化を遂げる。また、これにより、中国は列強帝国主義国から植民地的支配を受け、長きにわたって外国の蚕食を受けることとなり、中国の近代化は著しく遅れた。また国内的には、中国人にとり「中体西用」の限界牲を強〈認識させ、かわって日本をモデルに全面的な近代化を推進すべきであるとする変法論を台頭させることとなった。かくして、アヘン戦争以来50年の清国の国際的地位の失墜はいよいよ決定的なものとなり、これから先、清朝が倒れ、中華人民共和国が建設され、独立を達成するまでの更なる50年間いばらの道を歩むこととなった。さらに経済的には、その負の遺産を払拭するまでの間、さらに50年の月日を要することとなる。

        日本にとって日清戦争
         日本側にとってはまたとない懸案解決の機会となったこの下関条約で、まず清朝に対しては朝鮮の「完全無欠なる独立自主」を認めさせ、後に近代対等外交として両国の国交が再開されたことで、さらに欧米各国と同様に協定関税制度や領事裁判制度などのいわゆる不平等条約の適用を認めさせ、日本優位の不平等関係へと変わった。さらに台湾を日本に割譲することを承認した。これ以後50年間にわたり日本の領土として植民地支配を受けることとなった。こうして、日本は清国からの膨大な賠償金をてこに更なる近代化を達成させ、地理的な条件も幸いして、中国の利権をほしいがままに手にしていくことになる。この成功体験?が、日本に慢心を植え付け中国は日本の生命線とまで位置づけ、やがて日中戦争、第2次世界大戦まで突入することの誘因となってくる。
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