文化大革命の概要
文化大革命 ( プロレタリア文化大革命、略称は文革 ) は 1966 年に毛沢東が発動し、江青の4人組の失脚により終結した10年に及ぶ政治運動であった。
文革の背景
当時の中国は、朝鮮戦争での経済の立ち遅れと同時に、冷戦の下での中国包囲網、いくつかの重要施策の失敗に伴う国内の矛盾の激化、不満が増大していたことに加え、国内の封建的遺制が残存し、経済の進展を阻んでいた。
さらに国際的には、キューバ革命やベトナム戦争におけるソ連との路線の違いが浮き彫りになり、中国の頭越しにソ連とアメリカが妥協して、中国を追い詰める危険性が危惧された。
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毛沢東 |
文革の狙い
そこで毛沢東は、
- 国内の封建的遺制の一掃
- 米ソの国際協調による中国封じ込め政策の打破
- 国際的包囲網に対抗しうる軍事体制の強化と整備
- 国際協調路線を排除し、妥協を排除し党の純潔性を維持し中国自身の社会主義建設の道を追及する
- 数々の失政による国内の不満を逸らし、独裁体制を確立する
文革の過程
- 前期 :
運動はまず、ブルジョア的思想・文化に対する闘争として開始された 。 1965年11月、新編歴史劇「海瑞罷
官」に対する批判が文革の口火となった。 1966年 5月、康生・陳伯達・張春橋、そして毛沢東の妻・江青 ( のちの「四人組」 ) を中心メンバーとする中央文革小組が成立し、文革が本格的に開始する。
さらに、毛を熱狂的に信奉する若者たちからなる紅衛兵を煽って、政府や党機構を破壊させた。この期間を通じ、林彪は力を伸ばし、1969年の第九回党大会では毛の後継者に指名された。
- 中期
毛の文革の発動の狙いは自らの政策の失敗に対する国民の批判の目をそらすことにあり、「反ソ」を煽り立てることにより、中ソ間の緊張はいよいよ高まった。対米接近が模索されるようになったが、それを主導したのは周恩来ら実務官僚グループであり、その中で林彪グループは失脚していった ( 林彪事件 ) 。
- 後期
1971 年のキッシンジャー訪中、 1972 年 2月のニクソン訪中で米中の関係改善が実現し、日本とも同年 9月、田中角栄首相が訪中し、国交を正常化した。
こうして国際緊張の緩和が進み、これを背景に国内では 周恩来と復活した邓小平らが秩序を回復し、経済再建措置をとろうとした。 四人組は、1976年 9月毛沢東が亡くなり、後ろ盾がなくなるとまもなく失脚し、文革はようやく終結した 。
結び
この教科書では、文化大革命の要因を以下のように見ている。
「文革は毛沢東が起こした権力闘争とみなされることが多いが、それだけにとどまらない要素が複雑に絡んでいた 。 中国全土が 10 年にもわたり 動乱状態に陥ったのは、建国以来の社会主義建設が各方面において矛盾を蓄積していたからであり、民衆の不満が一気に爆発したのも一因であった 。」
「中国共产党简史」: 中国共産党は文革をどう評価しているか(中国共産党、「党史研究室」発行)
文化大革命については、全面的かつ長時間の左傾の誤りは毛沢東の主要な責任に負うところが大きい。ただしこの誤りは結局は中国の社会主義への道の探索中に犯した誤りである。毛沢東は全ての局面でも文化大革命的な誤りを堅持した。但し制止と糾正もまた誤りを犯した。
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