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2017年12月16日土曜日

文化大革命の本質は毛沢東の、毛沢東による、毛沢東のための権力闘争

文化大革命

文化大革命の概要

文化大革命 ( プロレタリア文化大革命、略称は文革 ) は 1966 年に毛沢東が発動し、江青の4人組の失脚により終結した10年に及ぶ政治運動であった。

文革の背景 

     当時の中国は、朝鮮戦争での経済の立ち遅れと同時に、冷戦の下での中国包囲網、いくつかの重要施策の失敗に伴う国内の矛盾の激化、不満が増大していたことに加え、国内の封建的遺制が残存し、経済の進展を阻んでいた。
     さらに国際的には、キューバ革命やベトナム戦争におけるソ連との路線の違いが浮き彫りになり、中国の頭越しにソ連とアメリカが妥協して、中国を追い詰める危険性が危惧された。
毛沢東


文革の狙い 
 そこで毛沢東は、

  • 国内の封建的遺制の一掃
  • 米ソの国際協調による中国封じ込め政策の打破
  • 国際的包囲網に対抗しうる軍事体制の強化と整備
  • 国際協調路線を排除し、妥協を排除し党の純潔性を維持し中国自身の社会主義建設の道を追及する
  • 数々の失政による国内の不満を逸らし、独裁体制を確立する

文革の過程


    • 前期 :
    • 運動はまず、ブルジョア的思想・文化に対する闘争として開始された 。 1965年11月、新編歴史劇「海瑞罷
      官」に対する批判が文革の口火となった。 1966年 5月、康生・陳伯達・張春橋、そして毛沢東の妻・江青 ( のちの「四人組」 ) を中心メンバーとする中央文革小組が成立し、文革が本格的に開始する。
       さらに、毛を熱狂的に信奉する若者たちからなる紅衛兵を煽って、政府や党機構を破壊させた。この期間を通じ、林彪は力を伸ばし、1969年の第九回党大会では毛の後継者に指名された。

    • 中期
       毛の文革の発動の狙いは自らの政策の失敗に対する国民の批判の目をそらすことにあり、「反ソ」を煽り立てることにより、中ソ間の緊張はいよいよ高まった。対米接近が模索されるようになったが、それを主導したのは周恩来ら実務官僚グループであり、その中で林彪グループは失脚していった ( 林彪事件 ) 。

    • 後期
        1971 年のキッシンジャー訪中、 1972 年 2月のニクソン訪中で米中の関係改善が実現し、日本とも同年 9月、田中角栄首相が訪中し、国交を正常化した。
      こうして国際緊張の緩和が進み、これを背景に国内では 周恩来と復活した邓小平らが秩序を回復し、経済再建措置をとろうとした。 四人組は、1976年 9月毛沢東が亡くなり、後ろ盾がなくなるとまもなく失脚し、文革はようやく終結した 。
     
    結び
     この教科書では、文化大革命の要因を以下のように見ている。

      「文革は毛沢東が起こした権力闘争とみなされることが多いが、それだけにとどまらない要素が複雑に絡んでいた 。 中国全土が 10 年にもわたり 動乱状態に陥ったのは、建国以来の社会主義建設が各方面において矛盾を蓄積していたからであり、民衆の不満が一気に爆発したのも一因であった 。」

    「中国共产党简史」: 中国共産党は文革をどう評価しているか(中国共産党、「党史研究室」発行)

      文化大革命については、全面的かつ長時間の左傾の誤りは毛沢東の主要な責任に負うところが大きい。ただしこの誤りは結局は中国の社会主義への道の探索中に犯した誤りである。毛沢東は全ての局面でも文化大革命的な誤りを堅持した。但し制止と糾正もまた誤りを犯した。

      詳しい説明は 【文化大革命】 ☜ をクリックしてください

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    2015年12月7日月曜日

    土地改革は朝鮮戦争を契機として、急進的な方法に変質し、そのことによる矛盾も多く噴出した

    土地改革

    2000年の間特徴づけられてきた中国農村の状況は一新された。まさに土地改革こそは、新生中国にとっての最重要課題であった。土地の均分を求める中国農民の二千年来の希求でもあったといわねばならない。

     これにより中国農村は新しく生まれかわり、地主階級が打倒されて土地を手にした農民(貧農・中農)による農業生産も著しい上昇を示した。その政治的な意義は、農村の権力構造を再編し、統治を社会の末端にまで浸透させるのに大きな役割を果たした。

    土地改革は何?
     土地や農具等の財産を地主・富農などの大土地所有者から没収し、それらを貧しい農民に分配した改革である。その改革は土地改革法が公布された1950年6月から始まり、1952年の年末に完了した。

     この改革は当初、策定された「土地改革法」に基づき、比較的穏健な方法で時間をかけて行う予定であったが、公布直前になって発生した朝鮮戦争により事態は一変した。戦時経済体制の構築を急いだ政府は、改革のテンポは速められ、方式も急進化した。

    土地改革のもたらしたもの
    しかし、一方このような性急な方法は多くの矛盾を引き出した。
    土地改革の結果、当初は著しく生産性は向上したが、53年になると早くも農業生産の停滞的な傾向もあらわれた。

    • 加えてこれらの土地改革はきわめて暴力的、急進的に行われ、華南や江南以外の地主制が発達していない地域においても、一律に富農・貧農に区別され、中農ですら土地を取り上げられ、著しい政治的抑圧を受けた。
    • 人口に一律に割り振ったため、日本の零細農家よりも小規模な農家を多量に生み出し、農業生産性が大幅に減少した。
    • 一方中国では土地売買は自由な経済活動として保証されており、改革後にも自由な経営を許せば、再び農家の階層分化が起きるという矛盾を持っていた。
    • そこで、1953年から統一購入・統一販売を導入した、一部には配給にもなったが、食料の不均衡配布のため、食糧暴動すら発生した。
    • この矛盾の解決のため、農業・農村の再編成が必要となり、1955年以降農業集団化が強行された。

    農業生産の停滞と増強のプレッシャー
    このような農業面での停滞は経済の基本的な部分を農業生産に依存している中国にとって、小土地所有農民に分割された小農経済がふたたび定着していくことにつながり、中国が目指す社会主義改造にとっても大きな障害になるものだと見なされた。
     加えて朝鮮戦争、冷戦の始まり、ソ連との軋轢など中国を取り巻く状況の変化は、生産増強へのプレッシャーはさらに強大なものとなった。

    土地の私有化と集団化の矛盾
    しかし、自分の土地をもてるようになるという期待こそが革命への参加の最大の動機であった多くの農民にとって、いったん自分のものとなった土地がふたたび集団所有化されていくことはきわめて深刻な矛盾であり、土地改革から農業集団化への歩みのなかには、さまざまな軋轢や緊張が生じたのであった。

    中国共産党の二律背反と禍根
    中国共産党はこの過程を段階革命論で合理化したが、結果的には中国国民に対する裏切りに等しい欺瞞的政策と非難を受けることとなった。この合理化とは「革命には段階があり、最初の段階で富農から土地を奪い、農民に与えるという無産者革命の段階、次の段階に革命が進めば、その土地を集団化して、社会主義路線に乗せることは革命の発展の過程である」というものであった。
     しかもこの土地改革は大衆的に、暴力的に行われ、多くの犠牲を伴った。こういった政治手法は、後の「百家斉放、百家争鳴」と「反右派闘争」でもそのまま踏襲され、文化大革命でも拡大発展(?)されることになり、中国共産党に対する根強い不信を植え付けることとなった。
     毛沢東は、中国の歴史の中での「XXの乱」といった反乱からよく学習し、大衆を動員し、その無差別的暴力を鼓舞し、攻撃を仕掛けるという手法を用い、その怖さを知り尽くしたうえでそれを100%利用したある意味では稀有の政治家ではなかったろうか。
     例えば秦の始皇帝や明の朱元璋のような暴君が恐怖政治で支配を強めたのに対し、毛沢東は彼らのように自らの暴力装置を前面に置かず、大衆を前面にたて、その暴力でもって支配したという意味では、はるかに高度な(?)政治手法だったと言えると思う。
     しかしながらそのような手法も、大衆の民度が低い場合に限って可能であり、今日の中国人民のように文化大革命を経験し、その中から多くのことを学んだ大衆に対してはそれを使うことはできないのではなかろうか。
     この手法を未だ使うことができる国は宗教が支配している国々が想定されるのだが・・・。

    参考文献
    「中国百科」 (P230,日本中国友好協会編、メコン社)
    「中国現代史」 (P205、中嶋嶺雄編 有斐閣選書)


     「土地改革」  ☜ 詳しい説明はこちらをクリックしてください

    2015年11月17日火曜日

    二度にわたる国共内戦と日中戦争 蒋介石

    国共内戦

    中国は二度にわたる国共合作を行い、それに対応して2度の国内内戦を経験している。しかしこれらの2度にわたる国内内戦は、いずれも蒋介石が仕掛けたものであり、その意味では蒋介石側にとって大義がなかったといわねばならない。
      二度目の国内内戦は、先の戦争における日本に対する勝利は、国共両党にとって、統一戦線を維持する根拠が喪失したことを意味した。
     大義もなく内戦を始めた蒋介石は、「新民主主義革命論を掲げ、資本主義発展を当面の間は認め、農村の根拠地では、土地改革を実施し貧しい農民の圧倒的支持を得ていた」共産党を中心とする統一戦線に敗れ、国内内戦に敗れ台湾に逃れることになる。
     同時にこの時期には毛沢東は共産党の中でその権力を確立し盤石なものとしていた。
    詳しい説明は 【国共内戦】 ☜ をクリックしてください

    2015年11月15日日曜日

    国共合作と対立の克服 対日統一戦線の成立

    国共合作と対立

    国共合作は1924年に第一次、そして1937年に第二次と2度にわたって行われている。
     それらはいずれも形の上では中国国民党と中国共産党の相対立する2つの党による合作であった。絶対に交じり合うことのない彼らが、どうして交じり合うことができたのだろうか?かつての日本人はそのことをきっちり読むことができていたのだろうか?その鍵は時代背景にあり。それを読む力は歴史を勉強する以外に付けることはできない。
     どの時も列強の帝国主義的搾取と収奪が激化し、それに対する大衆運動や労働運動が盛り上がり、統一戦線が大きな広がりを見せていた。
     第2次国共合作では第一次と少し趣が異なる。第2次国共合作の直接の原因となったのは、日本の
    関東軍に列車ごと爆破された張作霖の息子の張学良が引き起こした西安事件である。
     さらにこの時期は日本の侵略に対して、中国人の反日感情が大きく盛り上がっていたことに加え、蒋介石が率いる国民党と毛沢東が率いる共産党は依然として厳しい内戦を続けていたものの、共産党は戦力においても、党員数においても、そして大衆的にも第1次の国共合作の時期と違って大きな陣容を擁していた。
     しかしながら、この二度にわたる合作により、ようやく反日の統一戦線が成立し、日本を中国から放逐する舞台が整い、反日の闘いが中国としての統一して大きく前進することになる。
    (中島嶺雄著 「中国現代史」参照)


    詳しい説明は 【国共合作と対立】 ☜ をクリックしてください

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