2015年11月21日土曜日

中国近現代史 洋務運動と中国の近代工業の導入と近代化

洋務運動

アへン戦争以来の欧米との戦闘経験は、その軍事力の優越性を否応なく中国国民に認識させた。そこで1860年代より、清朝当事者の手による軍事分野の近代化が開始された。
  これを端緒として、はじめられた近代化・西洋化の取り組みを「洋務運動」と称する。以後日清戦争に至るまで、「西洋の実務」を取り入れるべく、複数の分野で近代化が推進されていった。
  • 近代工業導入と関連産業の近代化
  • 軽工業、石炭、鉱業、運輸、通信、交通

  • 総理衙門の近代外交
  • 外交

  • 洋務運動の限界と利点
  • 中体西用

    近代化の成果は、以後の中国社会の変革の重要な基礎
詳しい説明は 【洋務運動】 ☜ をクリックしてください


2015年11月17日火曜日

「義和団事件」:日清戦争後の民衆の蜂起は中国を更に苦しめる

義和団事件

事件の背景と顛末
 日清戦争以後、弱体ぶりを露呈した清朝に対して列強各国は各種の利権獲得など、進出の動きを強めることとなった。さながら中国は帝国主義国の草刈り場の観を呈することとなった。
 このことで、列強帝国主義の抑圧は直接民衆に降りかかり、排外主義の高まりを促した。そうした背景の中で、農村各地の民間結社が、義和団運動となって、連鎖的に排外活動の色彩を帯び、暴徒化し、都市部では、電信線や鉄道など広く外国に由来する事物を破壊するようになった。こうした事態を各国は、千載一遇のチャンスととらえ、居留民保護を名目に北京へ派兵した。
 これに対して清朝内部では、列強がこれを機に中国分割を実行することを危慎する意見が台頭し、各国軍との軍事衝突が発生した。これを事実上の開戦と理解した西太后は1900年 6 月宣戦を発し、ここに事態は英・仏・米・独・奥 ( オーストリ ア ) ・伊・露・日の 8 ヵ国連合軍と清朝との戦争に発展した。これが義和団事件である。
 これを映画化したのが、「北京の55日」という映画である。チャールトン・ヘストン主演だった。義和団は映画では悪役であるが、今日の中国では義賊として、半ば英雄視されている。

 事件の結末
 8 ヵ国連合軍は清朝正規軍および義勇兵に編入された義和団との戦闘を継続し、同年 8 月に北京を攻略・占領し、西太后らは西安に逃れた。
  その後は李鴻章が講和交渉の任にあたり、 1年近くをかけて 1901 年 9 月に北京議定書が成立した 。 これにより、清朝は莫大な賠償金をを39 ヵ年にわたって支払うなど、重い代償と引き替えに講和は成立した。
 このことはこうした事態を招いた自らの「後進性」の直視とともに、徹底した改革の必要性が西太后以下、政府当事者から在野の知識人に至る社会指導層の共通認識となっていった。 しかし、時すでに遅しで、慎重にはこれに対応する力はもう残されてはいなかった。

詳しい説明は 【義和団事件】 ☜ をクリックしてください

二度にわたる国共内戦と日中戦争 蒋介石

国共内戦

中国は二度にわたる国共合作を行い、それに対応して2度の国内内戦を経験している。しかしこれらの2度にわたる国内内戦は、いずれも蒋介石が仕掛けたものであり、その意味では蒋介石側にとって大義がなかったといわねばならない。
  二度目の国内内戦は、先の戦争における日本に対する勝利は、国共両党にとって、統一戦線を維持する根拠が喪失したことを意味した。
 大義もなく内戦を始めた蒋介石は、「新民主主義革命論を掲げ、資本主義発展を当面の間は認め、農村の根拠地では、土地改革を実施し貧しい農民の圧倒的支持を得ていた」共産党を中心とする統一戦線に敗れ、国内内戦に敗れ台湾に逃れることになる。
 同時にこの時期には毛沢東は共産党の中でその権力を確立し盤石なものとしていた。
詳しい説明は 【国共内戦】 ☜ をクリックしてください

2015年11月15日日曜日

国共合作と対立の克服 対日統一戦線の成立

国共合作と対立

国共合作は1924年に第一次、そして1937年に第二次と2度にわたって行われている。
 それらはいずれも形の上では中国国民党と中国共産党の相対立する2つの党による合作であった。絶対に交じり合うことのない彼らが、どうして交じり合うことができたのだろうか?かつての日本人はそのことをきっちり読むことができていたのだろうか?その鍵は時代背景にあり。それを読む力は歴史を勉強する以外に付けることはできない。
 どの時も列強の帝国主義的搾取と収奪が激化し、それに対する大衆運動や労働運動が盛り上がり、統一戦線が大きな広がりを見せていた。
 第2次国共合作では第一次と少し趣が異なる。第2次国共合作の直接の原因となったのは、日本の
関東軍に列車ごと爆破された張作霖の息子の張学良が引き起こした西安事件である。
 さらにこの時期は日本の侵略に対して、中国人の反日感情が大きく盛り上がっていたことに加え、蒋介石が率いる国民党と毛沢東が率いる共産党は依然として厳しい内戦を続けていたものの、共産党は戦力においても、党員数においても、そして大衆的にも第1次の国共合作の時期と違って大きな陣容を擁していた。
 しかしながら、この二度にわたる合作により、ようやく反日の統一戦線が成立し、日本を中国から放逐する舞台が整い、反日の闘いが中国としての統一して大きく前進することになる。
(中島嶺雄著 「中国現代史」参照)


詳しい説明は 【国共合作と対立】 ☜ をクリックしてください

********************

********************

2015年11月13日金曜日

抗日戦争:盧溝橋事件に端を発した「日中全面戦争」のこと

抗日戦争は、1945年日本の無条件降伏に至るまで戦われた日中全面戦争

盧溝橋にある抗日記念館
もうすぐ7月7日が巡って来る。中国の国民にとってはこの日に起こった盧溝橋事件に端を発し、日本軍により中国国内に全面的に蹂躙されるきっかけとなった「屈辱の日」である。  抗日戦争とは、盧溝橋事件に端を発し、1945年日本の無条件降伏に至るまで戦われた「日中全面戦争」のことである。日本では1931年から45年までの15年間を称して、「日中15年戦争」と呼ぶことがある。蒋介石の率いる国民政府はこの時点では共産党との交戦を続けていたが、しばらく後で起こった西安事件をきっかけに国共合作が成立し、中華民国は「抗日」のスローガンの元に統一されることになる。

抗日戦争  ☜ 詳しい説明はこちらをクリックしてください