2017年12月16日土曜日

文化大革命の本質は毛沢東の、毛沢東による、毛沢東のための権力闘争

文化大革命

文化大革命の概要

文化大革命 ( プロレタリア文化大革命、略称は文革 ) は 1966 年に毛沢東が発動し、江青の4人組の失脚により終結した10年に及ぶ政治運動であった。

文革の背景 

     当時の中国は、朝鮮戦争での経済の立ち遅れと同時に、冷戦の下での中国包囲網、いくつかの重要施策の失敗に伴う国内の矛盾の激化、不満が増大していたことに加え、国内の封建的遺制が残存し、経済の進展を阻んでいた。
     さらに国際的には、キューバ革命やベトナム戦争におけるソ連との路線の違いが浮き彫りになり、中国の頭越しにソ連とアメリカが妥協して、中国を追い詰める危険性が危惧された。
毛沢東


文革の狙い 
 そこで毛沢東は、

  • 国内の封建的遺制の一掃
  • 米ソの国際協調による中国封じ込め政策の打破
  • 国際的包囲網に対抗しうる軍事体制の強化と整備
  • 国際協調路線を排除し、妥協を排除し党の純潔性を維持し中国自身の社会主義建設の道を追及する
  • 数々の失政による国内の不満を逸らし、独裁体制を確立する

文革の過程


    • 前期 :
    • 運動はまず、ブルジョア的思想・文化に対する闘争として開始された 。 1965年11月、新編歴史劇「海瑞罷
      官」に対する批判が文革の口火となった。 1966年 5月、康生・陳伯達・張春橋、そして毛沢東の妻・江青 ( のちの「四人組」 ) を中心メンバーとする中央文革小組が成立し、文革が本格的に開始する。
       さらに、毛を熱狂的に信奉する若者たちからなる紅衛兵を煽って、政府や党機構を破壊させた。この期間を通じ、林彪は力を伸ばし、1969年の第九回党大会では毛の後継者に指名された。

    • 中期
       毛の文革の発動の狙いは自らの政策の失敗に対する国民の批判の目をそらすことにあり、「反ソ」を煽り立てることにより、中ソ間の緊張はいよいよ高まった。対米接近が模索されるようになったが、それを主導したのは周恩来ら実務官僚グループであり、その中で林彪グループは失脚していった ( 林彪事件 ) 。

    • 後期
        1971 年のキッシンジャー訪中、 1972 年 2月のニクソン訪中で米中の関係改善が実現し、日本とも同年 9月、田中角栄首相が訪中し、国交を正常化した。
      こうして国際緊張の緩和が進み、これを背景に国内では 周恩来と復活した邓小平らが秩序を回復し、経済再建措置をとろうとした。 四人組は、1976年 9月毛沢東が亡くなり、後ろ盾がなくなるとまもなく失脚し、文革はようやく終結した 。
     
    結び
     この教科書では、文化大革命の要因を以下のように見ている。

      「文革は毛沢東が起こした権力闘争とみなされることが多いが、それだけにとどまらない要素が複雑に絡んでいた 。 中国全土が 10 年にもわたり 動乱状態に陥ったのは、建国以来の社会主義建設が各方面において矛盾を蓄積していたからであり、民衆の不満が一気に爆発したのも一因であった 。」

    「中国共产党简史」: 中国共産党は文革をどう評価しているか(中国共産党、「党史研究室」発行)

      文化大革命については、全面的かつ長時間の左傾の誤りは毛沢東の主要な責任に負うところが大きい。ただしこの誤りは結局は中国の社会主義への道の探索中に犯した誤りである。毛沢東は全ての局面でも文化大革命的な誤りを堅持した。但し制止と糾正もまた誤りを犯した。

      詳しい説明は 【文化大革命】 ☜ をクリックしてください

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    2017年11月24日金曜日

    「百花斉放・百家争鳴」:文化大革命への序章であり、人民への重大な裏切り

    「百花斉放・百家争鳴」

    「百花斉放・百家争鳴」とは
      「百花斉放・百家争鳴」(あわせて「双百」とも言う。)は1956年から翌年にかけて、共産党が呼びかけた文芸・学術活動の多様化および言論自由化のスローガンである。1957年2月以降、党外に共産党への率直な批判を求めた。
     ところが、党の独裁を批判する意見が噴出。予想外の体制批判に驚いた党は、6月以降、発言者に「右派」のレッテルを貼り糾弾した(「反右派」闘争)。弾圧された知識人は55万人にも上り、これ以降、共産党批判は厳しく封じ込められたし、党に対する根強い不信が生まれた。

    共産党と民主党派の人々
     建国当初の民主党派の人々の役割
     建国当初は、民族ブルジョワ階級代表として民主同盟や民主建国会などの民主党派の人士も、国内の反動勢力との闘いに積極的に参加し、それなりに積極的役割を果たしていた。そして民主人士を含む知識人に対し、共産党は思想改造を呼びかけ、徐々に思想統制を進めた。多くの知識人が新しい社会に適応しようと積極的に応じていたし、党の方もそれほど急激な改革を望んではいなかったし、緩やかな改革を進めていたが、朝鮮戦争が終わり、冷戦が始まりしかも、中ソ紛争まで、起こってくるようになると、党は社会主義体制の急進化のために、人民内部の矛盾を速やかに解消し、次なる段階に進める必要が生じてきた。

     
    「人民内部の矛盾」

     1956年2月のフルシチョフによるスターリン批判は、反体制の高まりに発展する危機意識があったし、中国国内でも農村では農業合作社からの農民の脱退、都市では労働者のストライキ、学生の授業ボイコットなど、社会の不満が噴出しており、人民内部の矛盾を速やかに解消することに迫られていた。   緩やかな社会主義化のときは人民と党の間の軋轢はそれほどでもなかったが、社会主義化の速度が速くなると、両者の軋轢が次第に大きくなっていった。
      そこで双百の方針を打ち出し、人民内部の不満を吐き出させ、正しく処理しようとしたが、一部の民主的人士が激しく党を攻撃したため、共産党は態度を硬化させ、それまでの方針を一転して、民主党派の人々も含め「右派分子」のレッテルを貼り、弾圧に乗りだした。

    反右派闘争の結果とそのもたらしたもの

     「右派分子」のレッテルを貼られた人々は労働改造所送りになるなど政治的抑圧を受け続けたし、そのほかの人々も「右派」のレッテルを貼られるのを恐れ、上級の指示に盲目的に従うようになり、人々の言動は全体として、極左的に偏向していった。やがてそれは大躍進や文化大革命に顕著な流れを生み出していく。



    2017年11月9日木曜日

    日清戦争:中国の阿鼻叫喚の始まり日本の戦争立国への序章


    日清戦争

     日清戦争は、世界中に中国が、決して強大な国ではないことを、衆目にさらしてしまった。1894年に始まった日清戦争で、中国は為すところなく敗れ、1895年4月には、下関講和条約で、その屈辱的条件を呑まざるを得なかった。
     それから世界の帝国主義国の簒奪を受け、50年の長きに亘って、日本が太平洋戦争に敗れ、中国大陸から放逐されるまで、その国土は蹂躙され続けた。

    日本の帝国主義的野望牙をむく
    日本と清国の関係を約150年前に遡り時系列的に流れをつかむ

    すべての始まりは、1871年に日清修好条規が結ぼれて対等な内容で国交が樹立されたことから本格的に始まった

    手始めに台湾
    1. 1874年に台湾出兵
    2. 1879年には琉球処分を強行
    朝鮮に触手を伸ばす
      朝鮮を中国から切り離しにかかる
    1. 朝鮮をめぐり1875年に江華島事件を起こして開国を要求
    2. 1876年に日朝修好条規を締結
    3. 清国 壬午軍乱(1882年)・甲申政変(1884年)と相次いだクーデターへの介入、朝鮮の内政への関与
    4. 1894年に朝鮮で発生した東学党の乱(甲午農民戦争)・・日本にとり出兵 と清朝の影響力排除の格好の機会として利用された。ソウルに進軍した日本軍は親日政権を擁立
    本命の中国への攻略
    1. 直後に清国軍に対する攻撃を開始
    2. 1894年7月に日清戦争勃発
       陸海両面で展開された戦争は、まもなく日本側の全面的な勝利へと帰結した。
    3. 陸上では清国軍が朝鮮より退却し、追撃する日本軍が1894年10月に鴨緑江を渡って満州へと進撃
    4. 11月に遼東半島先端の旅順を占領した。そして海上では、9月の黄海海戦で東洋有数と称された北洋艦隊に勝利
    5. 1895年1月 その本拠地の山東半島威海衛を攻撃、2月陥落させた。
    6. 清朝側は講和を受け入れ、李鴻章を日本に派遣して伊藤博文らと下関で交渉開始させた。
    7. 1895年4月に下関条約(講和条約)
    下関条約と東アジア情勢の転換
     こうしては、近代東アジア史の重大な転換点となった。伝統的な中国を中心とした地域秩序は完全に解体し、かわって日本が優位に立ったものの、こうした状況は中国そして朝鮮に対する欧米列強の進出競争をもたらした。そうした結果、アジア全域で植民地のほしいがままに置かれることとなる。

    中国自身の影響
     歴史的な周辺諸国に対する宗属関係は完全に撤廃された。中国のアジアにおける地位は劇的な変化を遂げる。また、これにより、中国は列強帝国主義国から植民地的支配を受け、長きにわたって外国の蚕食を受けることとなり、中国の近代化は著しく遅れた。また国内的には、中国人にとり「中体西用」の限界牲を強〈認識させ、かわって日本をモデルに全面的な近代化を推進すべきであるとする変法論を台頭させることとなった。かくして、アヘン戦争以来50年の清国の国際的地位の失墜はいよいよ決定的なものとなり、これから先、清朝が倒れ、中華人民共和国が建設され、独立を達成するまでの更なる50年間いばらの道を歩むこととなった。さらに経済的には、その負の遺産を払拭するまでの間、さらに50年の月日を要することとなる。

      日本にとって日清戦争
       日本側にとってはまたとない懸案解決の機会となったこの下関条約で、まず清朝に対しては朝鮮の「完全無欠なる独立自主」を認めさせ、後に近代対等外交として両国の国交が再開されたことで、さらに欧米各国と同様に協定関税制度や領事裁判制度などのいわゆる不平等条約の適用を認めさせ、日本優位の不平等関係へと変わった。さらに台湾を日本に割譲することを承認した。これ以後50年間にわたり日本の領土として植民地支配を受けることとなった。こうして、日本は清国からの膨大な賠償金をてこに更なる近代化を達成させ、地理的な条件も幸いして、中国の利権をほしいがままに手にしていくことになる。この成功体験?が、日本に慢心を植え付け中国は日本の生命線とまで位置づけ、やがて日中戦争、第2次世界大戦まで突入することの誘因となってくる。
        中国百科検定攻略「歴史」のホームページ に戻ります。

        2017年11月3日金曜日

        アヘン戦争 イギリスが中国に仕掛けた最も卑劣な戦争:中国の苦しみの始まり

        第8章 近現代史 アヘン戦争


        アヘン戦争
           アへン戦争はイギリスによって仕掛けられた歴史上最悪の最も醜悪な戦争だと思います。いくら帝国主義にあると言えおよそ人間性のひとかけらもない戦争であったでしょう。勿論戦争に人間性を求めること自体がおかしいのかも知れませんが、それでも何らかの大義が求められるはずなのに、この戦争についてイギリスの自国に対する大義すら初めからなかったのではないかと思います。

         イギリスはこの戦争から後も、アジア、アフリカ、中東に魔の手を伸ばし、侵略と略奪を欲しいままにします。現在のアフリカの惨状や中東の混乱は基本的にすべて、この頃のイギリスを筆頭とするフランスなどの帝国主義的侵略に起因すると言えます。

         従って、イギリスを始めとする列強帝国主義国は現在の世界情勢の混乱に対して責任を負うべきだと考えます。


         アヘン戦争についてはここをクリックしてください。

        2017年8月24日木曜日

        諸子百家総論 春秋戦国時代に活躍した思想家・理論家たち

        諸子百家総論
        春秋末期から戦国期にかけて現れた思想家やその学派の総称。出典は 『史記』買生列伝。「買生(買誼)は年少きに、頗る諸子百家の書に通ず」とある。
         今日では一般に、儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家の九家 (「漢書」 芸文志 ) に、さらに兵家を加えた十家を諸子の学派と考える。
         西周封建の秩序が崩壊し社会が大きく変わろうとする変革期に、多くの思想家が、どのようにして社会を治めるかという統治論を唱えたが、同時代ならびに後世に最も影響を与えたのは、孔子・孟子・荀子らの儒家の思想である。

         
        以下概括的に述べる。
        • 儒家:孔子(BC552年‐BC479年、魯:現在の中国山東省)を始祖とする思考・信仰の体系である。中国、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。
          基本的には、群雄割拠の時代にあって、如何に平和裏に世を治めるかを説いた君子論である。孔子の死後、孟子が性善説、荀子が性悪説を説いて、それぞれに儒家の一派を構成した。

        • 道家:老子,荘子を代表とする思想的潮流の一つ(老荘思想ともいう)。儒家や墨家における人の道・振る舞いを排除し、宇宙の根源的存在としての「道」にのっとった無為自然の行いを重視する思想。「道」には様々な解釈があり、道家の名は「道」に基づく。

        • 法家:中国の戦国時代にあって、厳格な法という定まった基準によって国家を治めるべしという法治主義を説いた。儒家の述べる徳治のような信賞の基準が為政者の恣意であるような統治ではなく、厳格な法という定まった基準によって国家を治めるべしという立場である。秦の孝公に仕えた商鞅や韓の王族の韓非がよく知られている。

        • 墨家:中国戦国時代に墨子によって興った思想家集団であり、諸子百家の一つ。 博愛主義(兼愛交利)、非攻を説き、また武装防御集団として各地の守城戦で活躍した。 墨家の思想は、都市の下層技術者集団の連帯を背景にして生まれたものだといわれる。
           一時は儒家との双璧を為すほどの勢いを得たが、秦の国家統一のと共に忽然と姿を消した。
           平和主義を説いた武装集団であるが、戦乱の世の中で力を得たが、世が治まると却って存在意義を失った。

        • 名家 :代表的な思想家として、公孫龍や恵施が挙げられる、諸子百家の1つである。中国の戦国時代を中心として、一種の論理学を説いた。
           往々にして詭弁に陥り、公孫龍が唱えた「白馬非馬」(白馬は馬に非ず-白馬は『白馬』であって『馬』ではない)などは後世詭弁の代表として伝えられたほど。

        • 陰陽家:代表的な思想家として騶衍(すうえん)や、公孫発などが挙げられる、諸子百家の一つ。世界の万物の生成と変化は陰と陽の二種類に分類されると言う陰陽思想を説いた。後、戦国時代末期に五行思想と一体となった陰陽五行思想として東アジア文化圏に広まった。

        • 縦横家:巧みな弁舌と奇抜なアイディアで諸国を行き来し、諸侯を説き伏せ、あわよくば自らが高い地位に昇ろうとする、そのような行為を弁舌によって行う者が縦横家である。
           彼らには、それぞれの思想に基づく理想を実現するためという思想性はなく、単に口先三寸の世渡り的は振る舞いをすることを特徴とする。合従策を唱えた蘇秦と連衡策を唱えた張儀が有名。

        • 雑家:雑家(ざっか)は、諸子百家の一つであり、 儒家、道家、法家、墨家など諸家の説を取捨、総合、参酌したいいとこ取りの(百科全書的)学派である。

        • 農家 :古代中国の戦国時代の諸子百家の一つ。代表的思想家は許行。農業の重要性を説く。等しく農業に従事すること、物価を均等にすることなど平等社会を主張した

        • 小説家:春秋戦国時代の諸子百家の一つ。代表的思想家や著作に鬻子・青史子・師曠がある。故事(世間の出来事、説話など)を語り伝え、書物にして残した。
           民間の風俗を管轄する役人の間から発生したと推察される。

        • 兵家:諸子百家の一つ。軍略と政略を説く。代表的なものに「孫子の兵法」がある。孫子の兵法は13の篇からなり、今だに研究されている歴史的な書物。

        2017年8月3日木曜日

        朝鮮史 三千年の中国外史 これを知れば朝鮮民族のしたたかさが分かる

        中国と朝鮮のかかわりの歴史

        このブログで朝鮮通史を取り扱うことについて
         ここは、中国の歴史を扱うサイトであるので、朝鮮の歴史を論ずるのは少し場違いなところがある。しかし中国の歴史を正しく捉えようとすれば、朝鮮の歴史を正しく捉えなければならないと思う。それは朝鮮が中国から一貫して独立していたとか、していなかったというような次元の話ではないと考える。
         そこでは中国から見た朝鮮、朝鮮から見た中国という双方からの歴史観で冷静に探求する姿勢が必要だと思う。

        朝鮮通史年表
         しかし、ここではごく大雑把に朝鮮史を概括的に捉えることを目的とし、細かい中国と朝鮮の歴史の係りについては、その都度とりあげることとする。


        ヴィキペディアより
        引用

         さて、朝鮮の歴史については、ヴィキペディアのサイトを参考にしてみたい。これが正しいという訳ではないが、一つの客観的な資料と考えるからである。

         これらの歴史年表から見て、朝鮮が非常に長い期間にわたって、中国の支配力の下に生きてきたことが見て取れる。例えば漢の時代「4郡」という漢の行政機関が存在しているし、唐の時代には「都護府」という唐朝の行政官の名前が見えるし、さらに下って、宋の時代には、後金から、元ー高麗の時代、明清の時代に至っても、中国からの圧力と抗争に明け暮れている。  それらのことは、韓国の数々の物語でも繰り返し語られていることでもある。
         従って、「朝鮮がいかなる時も中国の一部であったことはない」と主張する人々もいるようであるが、この歴史的事実から見る限りは、論拠に薄い感じが否めない。

         しかし朝鮮の人々が長年に亘って、中国の支配を受けたり、或いは属国になったということは、朝鮮の人々が能力がなかったとか劣っていたということではなく、地理的につながっていたという事実と、地政学的に半島の小国が独立を維持することが如何に難しいことであるかを物語っているだけだ。

         逆に長い間非常な困難の中で、朝鮮の人々が、自らの尊厳を守り、民族としての自負を守り抜いてきたかに感心をせざるを得ない。
         私は、朝鮮の人々の全体として誇り高い心意気に尊敬の念を持つものである。

         朝鮮にせよ、ベトナムにせよ、フィリッピンにせよ、皆誇り高く崇高な尊厳を持って闘っていることに大きな希望を持つ次第だ。逆に日本人が見習うべきところがあるのではないかと感じてしまう今日この頃である。

         しかし、今不幸にして、38度線を境として、南と北に分断されている。直接の紛争の起こりは、北朝鮮が一挙に南朝鮮に侵攻したことである。それは歴史的事実であるが、その前に、1949年に中国が中華人民共和国を建設し、アメリカが自らの支配体制を維持に危機感をたぎらせ、北朝鮮、ソ連、中国に激しい敵愾心を持っていたことは確かで、その具体的政策が朝鮮戦争に繋がったのは事実である。
         


        2017年5月1日月曜日

        トランプ大統領と朝鮮


        北朝鮮とトランプの危険な火遊び

         最近、最近北朝鮮が挑発を繰り返している。それに対しトランプは戦争も辞さないと気違いじみた発言を繰り返している。トランプの策謀に乗ってはならない。
        トランプ大統領が中国の習近平主席と会談した時、習主席から聞いた話として、「韓国は実際に中国の一部だった」と公の席上で明らかにしたことは、世界中に波紋を引き起こしている。

         かれのこの発言は、トランプ大統領が習主席の“歴史講義”の内容をそのまま伝えたものかもしれないが、習主席の説明に自分の考えを混ぜて話した可能性もあると見られる。 このような発言を公開的に行ったのは、韓国の歴史について無知であることを表しただけでなく、外交的欠礼であることから、波紋を呼んでいる。トランプ大統領のこうした無節操な発言は、世界を混ぜ返すだけのものであり、およそ世界の指導者のとるべき態度ではなく、強く非難されるべきである。
         またもし、習主席が首脳会談で実際にこのような趣旨の話をしたならば、これも覇権主義的発想であり、自国中心的な歴史認識だという批判を免れない。


          今また北朝鮮を巡って不穏な空気が流れているし、戦争が勃発する危険すらある。
         この場に至っては迂闊なことはいえない。しかしいえるのは、北朝鮮をテーブルに着かせる粘り強い外交交渉が原則だということである。トランプは軽々しく戦争も辞さないということを発言しているが、戦争で傷付くのは、北朝鮮、韓国、日本、中国の国民で、アメリカではないことは決して忘れてはいけない。トランプの頭の中にあるのは、ICBMがアメリカに到達させないことだけだ。それが避けられるなら、他はどうなってもかまわないというのが、彼の今までの発言からはっきり見えていることではないだろうか。

         ここではトランプ氏の意図とこのような発言の是否は、別として、実際に中国と朝鮮の歴史がどうなっているのか、触れてみたい。
         普段から韓国の歴史に関するサイトでは、正直言って、「民族主義的」な見解が見受けられ、彼らの意図は別として、歴史をゆがめるものではないかと心配をしている。竹島問題、慰安婦問題を歴史の歪曲と主張する一方でこのような民族主義的見解が多く見受けられるのはやはり、「いかがなものか」と問いかけざるを得ない。ここはこのような時期だからこそ冷静に話し合う態度が望まれる。


         詳しい説明は 【中国と朝鮮のかかわりの歴史】 ☜ をクリックしてください


        2017年2月21日火曜日

        古代の土地制度と税制 中国封建税制の原型が全てそろう

        古代の土地・税法

        ①屯田制
        一般に、兵士に新しく耕地を開墾させ、平時は農業を行って自らを養い、戦時には軍隊に従事させる制度。前漢の武帝の時が最初といわれる。

        ②占田課田法
        中国、西晋の武帝が280年に発布した土地制度。占田は個人の土地所有の最高限度額を、課田は農民に一定の土地を割りつけ耕作させることを規定したものと推測される。

        ③均田制
        国家が土地を所有し、人民に分与して耕作させた中国古代の土地制度。貴族・豪族による土地の私有化を抑制して、国家の租税収入を確保することを目的とした。五世紀後半北魏(ほくぎ)に始まり、唐代半ば(八世紀)まで行われた。唐で実施された口分田はこの均田制が基になっているといわれている。その中身は口分田(くぶんでん)・永業田を支給し、その代償として租・庸・調や兵役を課した。

        ④佃戸制
        中国の小作農制度。均田制崩壊後の唐中期から宋代にかけて、荘園の耕作者として一般化。宋では主家から独立していたが、経済的に多くを依存していた。明・清代には地位も向上。

        ⑤井田制(チンデンセイ)とは、中国の古代王朝である周で施行されていたといわれる土地制度のこと。周公旦が整備したといい、孟子はこれを理想的な制度であるとした。
        まず、1里四方、900畝の田を「井」の字の形に9等分する。そうしてできる9区画のうち、中心の1区画を公田といい、公田の周りにできる8区画を私田という。私田はそれぞれ8家族に与えられる。公田は共有地として8家族が共同耕作し、そこから得た収穫を租税とした。以上のような内容が孟子によって語られているが、ほとんど伝説上の制度といってよく、その実態は依然として不明である。



        「乱」で貫かれた中国史 乱物語 乱の果たした歴史的役割

        乱で貫かれた中国史

        秦:陳勝・呉広の乱  BC209年
         始皇帝の死の翌年の前209年、秦の支配に対して起こされた農民反乱。これは歴史上初めての農民反乱として重要。その首謀者陳勝と呉広はいずれも貧農出身。秦の過酷な圧政に対する不満が噴出して、各地で呼応する反乱が起こった。反乱軍は内紛から瓦解し、鎮圧されたが、それに誘発された農民出身の劉邦の挙兵、また楚の王族であった項羽の挙兵などで一挙に秦を滅亡させることとなる。

        前漢:呉楚七国の乱 BC154年
        漢王朝は一族を封建領主として地方に分散させていたが、その内の呉にも領土削減の命令が届いたことを不満として、呉の王は反乱に踏み切った。これに楚・趙など六王が同調して反乱に加わった。呉も合わせて七国となったため、この反乱は後に「呉楚七国の乱」と呼ばれた。
         
        新:赤眉の乱  AD18年
        中国の「新」朝末に発生した農民反乱軍の名称。眉を赤く染め政府軍と区別したことから赤眉軍と称される。山東の琅邪郡海曲県で法が過酷であり賦税が重いことをが原因で拡大した。天鳳5年(18年)に海曲県の西、莒県(現在の山東省莒県)で蜂起した、琅邪出身の樊崇を指導者とする反乱軍に合流した。

        後漢:黄巾の乱 AD184年
        中国後漢末期の184年(中平1年)に太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。太平道は後漢末の華北一帯で民衆に信仰された道教の一派。
        晋:八王の乱 AD291年
        中国の王朝晋(西晋)の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱である。魏から禅譲を受けた司馬炎により、中国は100年にわたる三国時代に終止符を打って全土が統一されたが、その平和はわずか数十年で崩れ去り、この後中国は隋が統一するまでのおよそ300年にわたり、再び動乱の時代となる。

           永嘉の乱 304年~316年
        中国西晋末に起こった異民族による反乱である。懐帝の年号である永嘉からこう呼ばれているが、この乱により西晋は滅亡した。
        梁: 侯景の乱 548年
        梁の実質的滅亡 (梁、502年 - 557年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した王朝。

        唐:安史の乱 755年
        安禄山の乱(あんろくざんのらん)とは、755年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山(突厥系の将軍)とその部下の史思明が起こした。
        直接の原因は安禄山と玄宗皇帝の寵愛した楊貴妃の一族の対立であるが、背景には律令制度の弱体化があり、この乱以降は各地の節度使(藩鎮)がいよいよ力を得、朝廷は弱体化した。この乱による国内の乱れは、杜甫の「春望」にも読まれている。

           黄巣の乱 875~884年
        中国の唐末期に起きた農民の反乱。880年、黄巣は一度は長安に入って国号を大斉とし皇帝の位に就くほど勢いを得たが、唐軍の反撃を受けて今の山東省、泰山付近で敗死した。この乱は唐朝滅亡のきっかけとなった。
        宋:靖康の変(せいこうのへん)は、1126年
        宋(北宋)が、女真族(後世の満州族の前身)の金に敗れて、中国史上一貫して政治的中心地であった華北を失った事件。靖康は当時の宋の年号である。金は宋の上皇(前皇帝)徽宗・皇帝欽宗などを捕らえ、拉致したことで、北宋が滅び南宋となった。
        元:紅巾の乱 (1351年 - 1366年)
        中国元末期の1351年(至正11年)に起こった宗教的農民反乱。白蓮教を縹渺し、目印として紅い布を付けたのでこの名がある。反乱軍は紅巾賊または白蓮教徒が弥勒に焼香をするため香軍と呼ばれる。この大乱の中から明の太祖朱元璋が登場することとなる。
        明:李自成の乱 (1631-1645)
        明末の李自成が起こした農民反乱。北京を占領し、明王朝を滅ぼしたが、清に鎮圧された。 
        清:三藩の乱 1673年
        清朝第4代康熙帝の1673年に起こった漢人武将による反乱。雲南の呉三桂、広東の尚之信、福建の耿精忠が反乱を起こした。三藩は明滅亡後に南へ亡命した諸政権(南明)を指す事もあり、その場合は南明を前三藩、呉三桂たちを後三藩として区別する。

           白蓮教徒の乱(1796年から1804年)
        白蓮教の信徒が起した反乱である。乾隆帝が和珅の兄弟の和琳を白蓮教の鎮圧に送りこみ、全土で民衆多数が犠牲になり、これ幸いと官吏たちは金銭の収奪などを行った。1795年、乾隆帝が嘉慶帝に皇位を譲ると、和珅が地位を利用して専横を開始した。 これらの事で民衆は不満を募らせ、1796年(嘉慶元年)に湖北省で白蓮教団の指導の元に反乱が発生。これを契機に陝西省・四川省、河南省・甘粛省でも次々に拡大した。

           太平天国の乱 1851年から1864年
        洪秀全が中心となって起こした近代中国の大農民反乱。キリスト教信仰をもとにした拝上帝会を組織した洪秀全が、広西省の金田村を拠点に蜂起し、1851年に「太平天国」の国号で独立国家を樹立した。1853年には南京を都に天京と改称し首都とし、太平天国という独立国家を樹立したが、郷勇などの漢人勢力、外国軍の介入によって滅ぼされた。
        太平天国の内では、アヘンの吸引は禁止され、満州人の習俗である辮髪は否定され、封建的な纏足の風習などもやめることが奨励された。また土地を平等に分け与えよという主張も多くの支持を得、この乱が勢いを増したといわれる。 滅満興漢 満州人の政権である清朝を滅ぼし、漢民族の国家を復興させようという意味の太平天国が掲げたスローガン。
        回民蜂起1862年
        1862年に陝西省で、回民の太平天国に呼応した蜂起が発生し、また同時期に寧夏でも蜂起軍が発生し、一時は西安を包囲までになったが、結局1863年秋に敗北した。
        太平天国の崩壊後、左宗棠が率いる湘軍が陝西に入った。左宗棠は河州(現在の臨夏市)の馬占鰲の回民軍を投降させ、清軍に編入した。河州の回民軍を加えた左宗棠は西寧を攻略した。その後清軍は甘粛省に入り、甘粛省の拠点である粛州(現在の酒泉市)を包囲した。10月に粛州は陥落し、指導者である馬文禄はじめ7千人が処刑された。生き残った者は甘粛省南部に移住させられた。白彦虎率いる回民軍は、東トルキスタンのヤクブ・ベクのもとに逃れ、最後はロシアにまで逃れた。この子孫が現在のドンガン人である。 被害:この蜂起の結果、漢人と回民が両方も多く殺害された。甘粛省で出した死亡の件はほぼ漢人であった。戦乱の前に陝西省では70~80万いたの回民が10年後にはおよそ10分の1まで減少したという。
        ヤクブ・ベクの乱 1860年代から1870年代
        東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区)をめぐる戦乱。ムスリムの蜂起の結果、ヤクブ・ベクによって東トルキスタンは統一されたが、最終的にヤクブ・ベクは清の左宗棠に敗れ、ヤクブ・ベクが臣下に殺されることで崩壊した。

           壬午軍乱 1882年
        朝鮮の首都漢城(ソウル)で起きた事変。日清戦争の契機となる
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