2017年8月24日木曜日

諸子百家総論 春秋戦国時代に活躍した思想家・理論家たち

諸子百家総論
春秋末期から戦国期にかけて現れた思想家やその学派の総称。出典は 『史記』買生列伝。「買生(買誼)は年少きに、頗る諸子百家の書に通ず」とある。
 今日では一般に、儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家の九家 (「漢書」 芸文志 ) に、さらに兵家を加えた十家を諸子の学派と考える。
 西周封建の秩序が崩壊し社会が大きく変わろうとする変革期に、多くの思想家が、どのようにして社会を治めるかという統治論を唱えたが、同時代ならびに後世に最も影響を与えたのは、孔子・孟子・荀子らの儒家の思想である。

 
以下概括的に述べる。
  • 儒家:孔子(BC552年‐BC479年、魯:現在の中国山東省)を始祖とする思考・信仰の体系である。中国、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。
    基本的には、群雄割拠の時代にあって、如何に平和裏に世を治めるかを説いた君子論である。孔子の死後、孟子が性善説、荀子が性悪説を説いて、それぞれに儒家の一派を構成した。

  • 道家:老子,荘子を代表とする思想的潮流の一つ(老荘思想ともいう)。儒家や墨家における人の道・振る舞いを排除し、宇宙の根源的存在としての「道」にのっとった無為自然の行いを重視する思想。「道」には様々な解釈があり、道家の名は「道」に基づく。

  • 法家:中国の戦国時代にあって、厳格な法という定まった基準によって国家を治めるべしという法治主義を説いた。儒家の述べる徳治のような信賞の基準が為政者の恣意であるような統治ではなく、厳格な法という定まった基準によって国家を治めるべしという立場である。秦の孝公に仕えた商鞅や韓の王族の韓非がよく知られている。

  • 墨家:中国戦国時代に墨子によって興った思想家集団であり、諸子百家の一つ。 博愛主義(兼愛交利)、非攻を説き、また武装防御集団として各地の守城戦で活躍した。 墨家の思想は、都市の下層技術者集団の連帯を背景にして生まれたものだといわれる。
     一時は儒家との双璧を為すほどの勢いを得たが、秦の国家統一のと共に忽然と姿を消した。
     平和主義を説いた武装集団であるが、戦乱の世の中で力を得たが、世が治まると却って存在意義を失った。

  • 名家 :代表的な思想家として、公孫龍や恵施が挙げられる、諸子百家の1つである。中国の戦国時代を中心として、一種の論理学を説いた。
     往々にして詭弁に陥り、公孫龍が唱えた「白馬非馬」(白馬は馬に非ず-白馬は『白馬』であって『馬』ではない)などは後世詭弁の代表として伝えられたほど。

  • 陰陽家:代表的な思想家として騶衍(すうえん)や、公孫発などが挙げられる、諸子百家の一つ。世界の万物の生成と変化は陰と陽の二種類に分類されると言う陰陽思想を説いた。後、戦国時代末期に五行思想と一体となった陰陽五行思想として東アジア文化圏に広まった。

  • 縦横家:巧みな弁舌と奇抜なアイディアで諸国を行き来し、諸侯を説き伏せ、あわよくば自らが高い地位に昇ろうとする、そのような行為を弁舌によって行う者が縦横家である。
     彼らには、それぞれの思想に基づく理想を実現するためという思想性はなく、単に口先三寸の世渡り的は振る舞いをすることを特徴とする。合従策を唱えた蘇秦と連衡策を唱えた張儀が有名。

  • 雑家:雑家(ざっか)は、諸子百家の一つであり、 儒家、道家、法家、墨家など諸家の説を取捨、総合、参酌したいいとこ取りの(百科全書的)学派である。

  • 農家 :古代中国の戦国時代の諸子百家の一つ。代表的思想家は許行。農業の重要性を説く。等しく農業に従事すること、物価を均等にすることなど平等社会を主張した

  • 小説家:春秋戦国時代の諸子百家の一つ。代表的思想家や著作に鬻子・青史子・師曠がある。故事(世間の出来事、説話など)を語り伝え、書物にして残した。
     民間の風俗を管轄する役人の間から発生したと推察される。

  • 兵家:諸子百家の一つ。軍略と政略を説く。代表的なものに「孫子の兵法」がある。孫子の兵法は13の篇からなり、今だに研究されている歴史的な書物。

2017年8月3日木曜日

朝鮮史 三千年の中国外史 これを知れば朝鮮民族のしたたかさが分かる

中国と朝鮮のかかわりの歴史

このブログで朝鮮通史を取り扱うことについて
 ここは、中国の歴史を扱うサイトであるので、朝鮮の歴史を論ずるのは少し場違いなところがある。しかし中国の歴史を正しく捉えようとすれば、朝鮮の歴史を正しく捉えなければならないと思う。それは朝鮮が中国から一貫して独立していたとか、していなかったというような次元の話ではないと考える。
 そこでは中国から見た朝鮮、朝鮮から見た中国という双方からの歴史観で冷静に探求する姿勢が必要だと思う。

朝鮮通史年表
 しかし、ここではごく大雑把に朝鮮史を概括的に捉えることを目的とし、細かい中国と朝鮮の歴史の係りについては、その都度とりあげることとする。


ヴィキペディアより
引用

 さて、朝鮮の歴史については、ヴィキペディアのサイトを参考にしてみたい。これが正しいという訳ではないが、一つの客観的な資料と考えるからである。

 これらの歴史年表から見て、朝鮮が非常に長い期間にわたって、中国の支配力の下に生きてきたことが見て取れる。例えば漢の時代「4郡」という漢の行政機関が存在しているし、唐の時代には「都護府」という唐朝の行政官の名前が見えるし、さらに下って、宋の時代には、後金から、元ー高麗の時代、明清の時代に至っても、中国からの圧力と抗争に明け暮れている。  それらのことは、韓国の数々の物語でも繰り返し語られていることでもある。
 従って、「朝鮮がいかなる時も中国の一部であったことはない」と主張する人々もいるようであるが、この歴史的事実から見る限りは、論拠に薄い感じが否めない。

 しかし朝鮮の人々が長年に亘って、中国の支配を受けたり、或いは属国になったということは、朝鮮の人々が能力がなかったとか劣っていたということではなく、地理的につながっていたという事実と、地政学的に半島の小国が独立を維持することが如何に難しいことであるかを物語っているだけだ。

 逆に長い間非常な困難の中で、朝鮮の人々が、自らの尊厳を守り、民族としての自負を守り抜いてきたかに感心をせざるを得ない。
 私は、朝鮮の人々の全体として誇り高い心意気に尊敬の念を持つものである。

 朝鮮にせよ、ベトナムにせよ、フィリッピンにせよ、皆誇り高く崇高な尊厳を持って闘っていることに大きな希望を持つ次第だ。逆に日本人が見習うべきところがあるのではないかと感じてしまう今日この頃である。

 しかし、今不幸にして、38度線を境として、南と北に分断されている。直接の紛争の起こりは、北朝鮮が一挙に南朝鮮に侵攻したことである。それは歴史的事実であるが、その前に、1949年に中国が中華人民共和国を建設し、アメリカが自らの支配体制を維持に危機感をたぎらせ、北朝鮮、ソ連、中国に激しい敵愾心を持っていたことは確かで、その具体的政策が朝鮮戦争に繋がったのは事実である。
 


2017年5月1日月曜日

トランプ大統領と朝鮮


北朝鮮とトランプの危険な火遊び

 最近、最近北朝鮮が挑発を繰り返している。それに対しトランプは戦争も辞さないと気違いじみた発言を繰り返している。トランプの策謀に乗ってはならない。
トランプ大統領が中国の習近平主席と会談した時、習主席から聞いた話として、「韓国は実際に中国の一部だった」と公の席上で明らかにしたことは、世界中に波紋を引き起こしている。

 かれのこの発言は、トランプ大統領が習主席の“歴史講義”の内容をそのまま伝えたものかもしれないが、習主席の説明に自分の考えを混ぜて話した可能性もあると見られる。 このような発言を公開的に行ったのは、韓国の歴史について無知であることを表しただけでなく、外交的欠礼であることから、波紋を呼んでいる。トランプ大統領のこうした無節操な発言は、世界を混ぜ返すだけのものであり、およそ世界の指導者のとるべき態度ではなく、強く非難されるべきである。
 またもし、習主席が首脳会談で実際にこのような趣旨の話をしたならば、これも覇権主義的発想であり、自国中心的な歴史認識だという批判を免れない。


  今また北朝鮮を巡って不穏な空気が流れているし、戦争が勃発する危険すらある。
 この場に至っては迂闊なことはいえない。しかしいえるのは、北朝鮮をテーブルに着かせる粘り強い外交交渉が原則だということである。トランプは軽々しく戦争も辞さないということを発言しているが、戦争で傷付くのは、北朝鮮、韓国、日本、中国の国民で、アメリカではないことは決して忘れてはいけない。トランプの頭の中にあるのは、ICBMがアメリカに到達させないことだけだ。それが避けられるなら、他はどうなってもかまわないというのが、彼の今までの発言からはっきり見えていることではないだろうか。

 ここではトランプ氏の意図とこのような発言の是否は、別として、実際に中国と朝鮮の歴史がどうなっているのか、触れてみたい。
 普段から韓国の歴史に関するサイトでは、正直言って、「民族主義的」な見解が見受けられ、彼らの意図は別として、歴史をゆがめるものではないかと心配をしている。竹島問題、慰安婦問題を歴史の歪曲と主張する一方でこのような民族主義的見解が多く見受けられるのはやはり、「いかがなものか」と問いかけざるを得ない。ここはこのような時期だからこそ冷静に話し合う態度が望まれる。


 詳しい説明は 【中国と朝鮮のかかわりの歴史】 ☜ をクリックしてください


2017年2月21日火曜日

古代の土地制度と税制 中国封建税制の原型が全てそろう

古代の土地・税法

①屯田制
一般に、兵士に新しく耕地を開墾させ、平時は農業を行って自らを養い、戦時には軍隊に従事させる制度。前漢の武帝の時が最初といわれる。

②占田課田法
中国、西晋の武帝が280年に発布した土地制度。占田は個人の土地所有の最高限度額を、課田は農民に一定の土地を割りつけ耕作させることを規定したものと推測される。

③均田制
国家が土地を所有し、人民に分与して耕作させた中国古代の土地制度。貴族・豪族による土地の私有化を抑制して、国家の租税収入を確保することを目的とした。五世紀後半北魏(ほくぎ)に始まり、唐代半ば(八世紀)まで行われた。唐で実施された口分田はこの均田制が基になっているといわれている。その中身は口分田(くぶんでん)・永業田を支給し、その代償として租・庸・調や兵役を課した。

④佃戸制
中国の小作農制度。均田制崩壊後の唐中期から宋代にかけて、荘園の耕作者として一般化。宋では主家から独立していたが、経済的に多くを依存していた。明・清代には地位も向上。

⑤井田制(チンデンセイ)とは、中国の古代王朝である周で施行されていたといわれる土地制度のこと。周公旦が整備したといい、孟子はこれを理想的な制度であるとした。
まず、1里四方、900畝の田を「井」の字の形に9等分する。そうしてできる9区画のうち、中心の1区画を公田といい、公田の周りにできる8区画を私田という。私田はそれぞれ8家族に与えられる。公田は共有地として8家族が共同耕作し、そこから得た収穫を租税とした。以上のような内容が孟子によって語られているが、ほとんど伝説上の制度といってよく、その実態は依然として不明である。



「乱」で貫かれた中国史 乱物語 乱の果たした歴史的役割

乱で貫かれた中国史

秦:陳勝・呉広の乱  BC209年
 始皇帝の死の翌年の前209年、秦の支配に対して起こされた農民反乱。これは歴史上初めての農民反乱として重要。その首謀者陳勝と呉広はいずれも貧農出身。秦の過酷な圧政に対する不満が噴出して、各地で呼応する反乱が起こった。反乱軍は内紛から瓦解し、鎮圧されたが、それに誘発された農民出身の劉邦の挙兵、また楚の王族であった項羽の挙兵などで一挙に秦を滅亡させることとなる。

前漢:呉楚七国の乱 BC154年
漢王朝は一族を封建領主として地方に分散させていたが、その内の呉にも領土削減の命令が届いたことを不満として、呉の王は反乱に踏み切った。これに楚・趙など六王が同調して反乱に加わった。呉も合わせて七国となったため、この反乱は後に「呉楚七国の乱」と呼ばれた。
 
新:赤眉の乱  AD18年
中国の「新」朝末に発生した農民反乱軍の名称。眉を赤く染め政府軍と区別したことから赤眉軍と称される。山東の琅邪郡海曲県で法が過酷であり賦税が重いことをが原因で拡大した。天鳳5年(18年)に海曲県の西、莒県(現在の山東省莒県)で蜂起した、琅邪出身の樊崇を指導者とする反乱軍に合流した。

後漢:黄巾の乱 AD184年
中国後漢末期の184年(中平1年)に太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。太平道は後漢末の華北一帯で民衆に信仰された道教の一派。
晋:八王の乱 AD291年
中国の王朝晋(西晋)の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱である。魏から禅譲を受けた司馬炎により、中国は100年にわたる三国時代に終止符を打って全土が統一されたが、その平和はわずか数十年で崩れ去り、この後中国は隋が統一するまでのおよそ300年にわたり、再び動乱の時代となる。

   永嘉の乱 304年~316年
中国西晋末に起こった異民族による反乱である。懐帝の年号である永嘉からこう呼ばれているが、この乱により西晋は滅亡した。
梁: 侯景の乱 548年
梁の実質的滅亡 (梁、502年 - 557年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した王朝。

唐:安史の乱 755年
安禄山の乱(あんろくざんのらん)とは、755年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山(突厥系の将軍)とその部下の史思明が起こした。
直接の原因は安禄山と玄宗皇帝の寵愛した楊貴妃の一族の対立であるが、背景には律令制度の弱体化があり、この乱以降は各地の節度使(藩鎮)がいよいよ力を得、朝廷は弱体化した。この乱による国内の乱れは、杜甫の「春望」にも読まれている。

   黄巣の乱 875~884年
中国の唐末期に起きた農民の反乱。880年、黄巣は一度は長安に入って国号を大斉とし皇帝の位に就くほど勢いを得たが、唐軍の反撃を受けて今の山東省、泰山付近で敗死した。この乱は唐朝滅亡のきっかけとなった。
宋:靖康の変(せいこうのへん)は、1126年
宋(北宋)が、女真族(後世の満州族の前身)の金に敗れて、中国史上一貫して政治的中心地であった華北を失った事件。靖康は当時の宋の年号である。金は宋の上皇(前皇帝)徽宗・皇帝欽宗などを捕らえ、拉致したことで、北宋が滅び南宋となった。
元:紅巾の乱 (1351年 - 1366年)
中国元末期の1351年(至正11年)に起こった宗教的農民反乱。白蓮教を縹渺し、目印として紅い布を付けたのでこの名がある。反乱軍は紅巾賊または白蓮教徒が弥勒に焼香をするため香軍と呼ばれる。この大乱の中から明の太祖朱元璋が登場することとなる。
明:李自成の乱 (1631-1645)
明末の李自成が起こした農民反乱。北京を占領し、明王朝を滅ぼしたが、清に鎮圧された。 
清:三藩の乱 1673年
清朝第4代康熙帝の1673年に起こった漢人武将による反乱。雲南の呉三桂、広東の尚之信、福建の耿精忠が反乱を起こした。三藩は明滅亡後に南へ亡命した諸政権(南明)を指す事もあり、その場合は南明を前三藩、呉三桂たちを後三藩として区別する。

   白蓮教徒の乱(1796年から1804年)
白蓮教の信徒が起した反乱である。乾隆帝が和珅の兄弟の和琳を白蓮教の鎮圧に送りこみ、全土で民衆多数が犠牲になり、これ幸いと官吏たちは金銭の収奪などを行った。1795年、乾隆帝が嘉慶帝に皇位を譲ると、和珅が地位を利用して専横を開始した。 これらの事で民衆は不満を募らせ、1796年(嘉慶元年)に湖北省で白蓮教団の指導の元に反乱が発生。これを契機に陝西省・四川省、河南省・甘粛省でも次々に拡大した。

   太平天国の乱 1851年から1864年
洪秀全が中心となって起こした近代中国の大農民反乱。キリスト教信仰をもとにした拝上帝会を組織した洪秀全が、広西省の金田村を拠点に蜂起し、1851年に「太平天国」の国号で独立国家を樹立した。1853年には南京を都に天京と改称し首都とし、太平天国という独立国家を樹立したが、郷勇などの漢人勢力、外国軍の介入によって滅ぼされた。
太平天国の内では、アヘンの吸引は禁止され、満州人の習俗である辮髪は否定され、封建的な纏足の風習などもやめることが奨励された。また土地を平等に分け与えよという主張も多くの支持を得、この乱が勢いを増したといわれる。 滅満興漢 満州人の政権である清朝を滅ぼし、漢民族の国家を復興させようという意味の太平天国が掲げたスローガン。
回民蜂起1862年
1862年に陝西省で、回民の太平天国に呼応した蜂起が発生し、また同時期に寧夏でも蜂起軍が発生し、一時は西安を包囲までになったが、結局1863年秋に敗北した。
太平天国の崩壊後、左宗棠が率いる湘軍が陝西に入った。左宗棠は河州(現在の臨夏市)の馬占鰲の回民軍を投降させ、清軍に編入した。河州の回民軍を加えた左宗棠は西寧を攻略した。その後清軍は甘粛省に入り、甘粛省の拠点である粛州(現在の酒泉市)を包囲した。10月に粛州は陥落し、指導者である馬文禄はじめ7千人が処刑された。生き残った者は甘粛省南部に移住させられた。白彦虎率いる回民軍は、東トルキスタンのヤクブ・ベクのもとに逃れ、最後はロシアにまで逃れた。この子孫が現在のドンガン人である。 被害:この蜂起の結果、漢人と回民が両方も多く殺害された。甘粛省で出した死亡の件はほぼ漢人であった。戦乱の前に陝西省では70~80万いたの回民が10年後にはおよそ10分の1まで減少したという。
ヤクブ・ベクの乱 1860年代から1870年代
東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区)をめぐる戦乱。ムスリムの蜂起の結果、ヤクブ・ベクによって東トルキスタンは統一されたが、最終的にヤクブ・ベクは清の左宗棠に敗れ、ヤクブ・ベクが臣下に殺されることで崩壊した。

   壬午軍乱 1882年
朝鮮の首都漢城(ソウル)で起きた事変。日清戦争の契機となる
詳しい説明は 【XXXXXXXXXXXXX】 ☜ をクリックしてください

2016年10月18日火曜日

明・清時代の税法改革 一条鞭法と摊入地亩 

明清の一条鞭法と摊丁入亩

明の中葉以来、土地の兼併が大変大きくなり、官吏の政治の腐敗はさらに深くなり、この状況の下で、明は田畑の測量をし、税と糧食の平準化は理財安民を収める重要な課題であった。
 張居正の改革はまず軍事・政治に着手し、経済側面に拡張していくというものだった。彼は田畑の測量を通し、賦役制度の改革をし、一条鞭法の措置を推進し社会矛盾の解消を図り、財政危機を救った。
 崩壊の水際に迫っていた明王朝を少しの間だけども蘇生させ繁栄をもたらした。清のはじめの賦役制度は明王朝を引き継いだ。

一条鞭法とは
 明の万暦9年、張居正は全国に一条鞭法の推進の命を下した。まず最初に、賦役を合併し、煩雑な制度を簡素化した。各省、府、州、県の田賦と徭役の総量と土貢・地方産物などの項目の徴収を総計し、これを一つにまとめて、統一的に徴収した。ゆえに一条鞭法と呼ばれる。
 ここでの改革の要旨は、税法システムの簡素化と賦役と土地税を統一することにより、税負担の均等化を図ったことである。

摊入地亩とは
 康熙五十年 (1711 年 ) , 清朝第4代康熙帝はまず小幅改革を実施している。人頭数を固定し、以降人頭たる労働力を養い、賦課を増やさなかった。
 続いて第5代雍正帝は皇位を告ぐと改革に突入した。人頭税である摊入地亩で、田畑の多少で納税の数目を定めた。土地を多く持つものは多く納め、土地の少ないものは少なく納めるようにした。土地のないものは無税とした。
 摊丁入亩制度は中国封建社会の後期の賦役制度の第一次の重要な改革となった。制度は一定程度の漢唐以来の人頭税を廃し、農民対封建国家の人身に寄り添って頼る関係を一歩緩めた。田畑納税の按分は土地を持たない農民の法律上納税をなくした。賦役の不均等の現象は緩和された。生産の発展と社会の安定に有利に働き中国の人口増加と社会経済の発展に重要な意義をもたらした。




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2016年7月20日水曜日

中国外史:元寇と日本とアイヌは互角に戦いを繰り広げていた

元寇と日本とアイヌ

 元との関係では日本にとっては国の開闢以来の出来事として、元寇の襲来を上げなければならない。元の時の皇帝フビライはマルコポーロの感化もあり日本を服従させたいと考えていた。日本の北条政権に対し、6度にわたり朝貢をするよう使節を送ってきていた。にもかかわらず、時の執権北条時宗はそれをことごとく拒み、最後にはその使者を切って捨ててしまった。かくして外交上のルートは完全に途絶え、元は日本を服従させるべく大量の軍隊を日本に送り込んだ。これが文永弘安の役である。この時に神風が吹き蒙古軍が大きな痛手を被ったとされているが、少なくとも文永の役のときには、そのような大きな嵐があったという記録は蒙古側にもなく、その証左もないようである。


日本の状況
 その時代は鎌倉幕府で権力は北条氏が握り、全国を守護、地頭という封建領主に割り当て、封建制度は確立していたといわれる。また幕府直轄の御家人集団が、全国に配置され幕府から要請のあったときは「いざ、鎌倉」の号令の下、はせ参じるようになっている。この封建制度が完備していたことが、蒙古襲来に対し大きな力を発揮したといわれている。 

アイヌとの闘い
 ところで、文永の役の十数年前に元は樺太に兵を送り込みアイヌと戦闘を交えていることは日本ではほとんど知られていない。あの強大な元を相手にアイヌが約10年もかけて果敢に戦ったことは、驚嘆に値することではなかっただろうか。このことについては鎌倉幕府には何も情報を持っていなかったようである。このように当時の日本民族にとって蝦夷の地は最果ての地であり、全く見えていなかったのかもしれない。




詳しい説明は 【元寇とアイヌ】 ☜ をクリックしてください

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