2017年2月21日火曜日

「乱」で貫かれた中国史 乱物語 乱の果たした歴史的役割

乱で貫かれた中国史

秦:陳勝・呉広の乱  BC209年
 始皇帝の死の翌年の前209年、秦の支配に対して起こされた農民反乱。これは歴史上初めての農民反乱として重要。その首謀者陳勝と呉広はいずれも貧農出身。秦の過酷な圧政に対する不満が噴出して、各地で呼応する反乱が起こった。反乱軍は内紛から瓦解し、鎮圧されたが、それに誘発された農民出身の劉邦の挙兵、また楚の王族であった項羽の挙兵などで一挙に秦を滅亡させることとなる。

前漢:呉楚七国の乱 BC154年
漢王朝は一族を封建領主として地方に分散させていたが、その内の呉にも領土削減の命令が届いたことを不満として、呉の王は反乱に踏み切った。これに楚・趙など六王が同調して反乱に加わった。呉も合わせて七国となったため、この反乱は後に「呉楚七国の乱」と呼ばれた。
 
新:赤眉の乱  AD18年
中国の「新」朝末に発生した農民反乱軍の名称。眉を赤く染め政府軍と区別したことから赤眉軍と称される。山東の琅邪郡海曲県で法が過酷であり賦税が重いことをが原因で拡大した。天鳳5年(18年)に海曲県の西、莒県(現在の山東省莒県)で蜂起した、琅邪出身の樊崇を指導者とする反乱軍に合流した。

後漢:黄巾の乱 AD184年
中国後漢末期の184年(中平1年)に太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。太平道は後漢末の華北一帯で民衆に信仰された道教の一派。
晋:八王の乱 AD291年
中国の王朝晋(西晋)の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱である。魏から禅譲を受けた司馬炎により、中国は100年にわたる三国時代に終止符を打って全土が統一されたが、その平和はわずか数十年で崩れ去り、この後中国は隋が統一するまでのおよそ300年にわたり、再び動乱の時代となる。

   永嘉の乱 304年~316年
中国西晋末に起こった異民族による反乱である。懐帝の年号である永嘉からこう呼ばれているが、この乱により西晋は滅亡した。
梁: 侯景の乱 548年
梁の実質的滅亡 (梁、502年 - 557年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した王朝。

唐:安史の乱 755年
安禄山の乱(あんろくざんのらん)とは、755年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山(突厥系の将軍)とその部下の史思明が起こした。
直接の原因は安禄山と玄宗皇帝の寵愛した楊貴妃の一族の対立であるが、背景には律令制度の弱体化があり、この乱以降は各地の節度使(藩鎮)がいよいよ力を得、朝廷は弱体化した。この乱による国内の乱れは、杜甫の「春望」にも読まれている。

   黄巣の乱 875~884年
中国の唐末期に起きた農民の反乱。880年、黄巣は一度は長安に入って国号を大斉とし皇帝の位に就くほど勢いを得たが、唐軍の反撃を受けて今の山東省、泰山付近で敗死した。この乱は唐朝滅亡のきっかけとなった。
宋:靖康の変(せいこうのへん)は、1126年
宋(北宋)が、女真族(後世の満州族の前身)の金に敗れて、中国史上一貫して政治的中心地であった華北を失った事件。靖康は当時の宋の年号である。金は宋の上皇(前皇帝)徽宗・皇帝欽宗などを捕らえ、拉致したことで、北宋が滅び南宋となった。
元:紅巾の乱 (1351年 - 1366年)
中国元末期の1351年(至正11年)に起こった宗教的農民反乱。白蓮教を縹渺し、目印として紅い布を付けたのでこの名がある。反乱軍は紅巾賊または白蓮教徒が弥勒に焼香をするため香軍と呼ばれる。この大乱の中から明の太祖朱元璋が登場することとなる。
明:李自成の乱 (1631-1645)
明末の李自成が起こした農民反乱。北京を占領し、明王朝を滅ぼしたが、清に鎮圧された。 
清:三藩の乱 1673年
清朝第4代康熙帝の1673年に起こった漢人武将による反乱。雲南の呉三桂、広東の尚之信、福建の耿精忠が反乱を起こした。三藩は明滅亡後に南へ亡命した諸政権(南明)を指す事もあり、その場合は南明を前三藩、呉三桂たちを後三藩として区別する。

   白蓮教徒の乱(1796年から1804年)
白蓮教の信徒が起した反乱である。乾隆帝が和珅の兄弟の和琳を白蓮教の鎮圧に送りこみ、全土で民衆多数が犠牲になり、これ幸いと官吏たちは金銭の収奪などを行った。1795年、乾隆帝が嘉慶帝に皇位を譲ると、和珅が地位を利用して専横を開始した。 これらの事で民衆は不満を募らせ、1796年(嘉慶元年)に湖北省で白蓮教団の指導の元に反乱が発生。これを契機に陝西省・四川省、河南省・甘粛省でも次々に拡大した。

   太平天国の乱 1851年から1864年
洪秀全が中心となって起こした近代中国の大農民反乱。キリスト教信仰をもとにした拝上帝会を組織した洪秀全が、広西省の金田村を拠点に蜂起し、1851年に「太平天国」の国号で独立国家を樹立した。1853年には南京を都に天京と改称し首都とし、太平天国という独立国家を樹立したが、郷勇などの漢人勢力、外国軍の介入によって滅ぼされた。
太平天国の内では、アヘンの吸引は禁止され、満州人の習俗である辮髪は否定され、封建的な纏足の風習などもやめることが奨励された。また土地を平等に分け与えよという主張も多くの支持を得、この乱が勢いを増したといわれる。 滅満興漢 満州人の政権である清朝を滅ぼし、漢民族の国家を復興させようという意味の太平天国が掲げたスローガン。
回民蜂起1862年
1862年に陝西省で、回民の太平天国に呼応した蜂起が発生し、また同時期に寧夏でも蜂起軍が発生し、一時は西安を包囲までになったが、結局1863年秋に敗北した。
太平天国の崩壊後、左宗棠が率いる湘軍が陝西に入った。左宗棠は河州(現在の臨夏市)の馬占鰲の回民軍を投降させ、清軍に編入した。河州の回民軍を加えた左宗棠は西寧を攻略した。その後清軍は甘粛省に入り、甘粛省の拠点である粛州(現在の酒泉市)を包囲した。10月に粛州は陥落し、指導者である馬文禄はじめ7千人が処刑された。生き残った者は甘粛省南部に移住させられた。白彦虎率いる回民軍は、東トルキスタンのヤクブ・ベクのもとに逃れ、最後はロシアにまで逃れた。この子孫が現在のドンガン人である。 被害:この蜂起の結果、漢人と回民が両方も多く殺害された。甘粛省で出した死亡の件はほぼ漢人であった。戦乱の前に陝西省では70~80万いたの回民が10年後にはおよそ10分の1まで減少したという。
ヤクブ・ベクの乱 1860年代から1870年代
東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区)をめぐる戦乱。ムスリムの蜂起の結果、ヤクブ・ベクによって東トルキスタンは統一されたが、最終的にヤクブ・ベクは清の左宗棠に敗れ、ヤクブ・ベクが臣下に殺されることで崩壊した。

   壬午軍乱 1882年
朝鮮の首都漢城(ソウル)で起きた事変。日清戦争の契機となる
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2016年10月18日火曜日

明・清時代の税法改革 一条鞭法と摊入地亩 

明清の一条鞭法と摊丁入亩

明の中葉以来、土地の兼併が大変大きくなり、官吏の政治の腐敗はさらに深くなり、この状況の下で、明は田畑の測量をし、税と糧食の平準化は理財安民を収める重要な課題であった。
 張居正の改革はまず軍事・政治に着手し、経済側面に拡張していくというものだった。彼は田畑の測量を通し、賦役制度の改革をし、一条鞭法の措置を推進し社会矛盾の解消を図り、財政危機を救った。
 崩壊の水際に迫っていた明王朝を少しの間だけども蘇生させ繁栄をもたらした。清のはじめの賦役制度は明王朝を引き継いだ。

一条鞭法とは
 明の万暦9年、張居正は全国に一条鞭法の推進の命を下した。まず最初に、賦役を合併し、煩雑な制度を簡素化した。各省、府、州、県の田賦と徭役の総量と土貢・地方産物などの項目の徴収を総計し、これを一つにまとめて、統一的に徴収した。ゆえに一条鞭法と呼ばれる。
 ここでの改革の要旨は、税法システムの簡素化と賦役と土地税を統一することにより、税負担の均等化を図ったことである。

摊入地亩とは
 康熙五十年 (1711 年 ) , 清朝第4代康熙帝はまず小幅改革を実施している。人頭数を固定し、以降人頭たる労働力を養い、賦課を増やさなかった。
 続いて第5代雍正帝は皇位を告ぐと改革に突入した。人頭税である摊入地亩で、田畑の多少で納税の数目を定めた。土地を多く持つものは多く納め、土地の少ないものは少なく納めるようにした。土地のないものは無税とした。
 摊丁入亩制度は中国封建社会の後期の賦役制度の第一次の重要な改革となった。制度は一定程度の漢唐以来の人頭税を廃し、農民対封建国家の人身に寄り添って頼る関係を一歩緩めた。田畑納税の按分は土地を持たない農民の法律上納税をなくした。賦役の不均等の現象は緩和された。生産の発展と社会の安定に有利に働き中国の人口増加と社会経済の発展に重要な意義をもたらした。




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2016年7月20日水曜日

中国外史:元寇と日本とアイヌは互角に戦いを繰り広げていた

元寇と日本とアイヌ

 元との関係では日本にとっては国の開闢以来の出来事として、元寇の襲来を上げなければならない。元の時の皇帝フビライはマルコポーロの感化もあり日本を服従させたいと考えていた。日本の北条政権に対し、6度にわたり朝貢をするよう使節を送ってきていた。にもかかわらず、時の執権北条時宗はそれをことごとく拒み、最後にはその使者を切って捨ててしまった。かくして外交上のルートは完全に途絶え、元は日本を服従させるべく大量の軍隊を日本に送り込んだ。これが文永弘安の役である。この時に神風が吹き蒙古軍が大きな痛手を被ったとされているが、少なくとも文永の役のときには、そのような大きな嵐があったという記録は蒙古側にもなく、その証左もないようである。


日本の状況
 その時代は鎌倉幕府で権力は北条氏が握り、全国を守護、地頭という封建領主に割り当て、封建制度は確立していたといわれる。また幕府直轄の御家人集団が、全国に配置され幕府から要請のあったときは「いざ、鎌倉」の号令の下、はせ参じるようになっている。この封建制度が完備していたことが、蒙古襲来に対し大きな力を発揮したといわれている。 

アイヌとの闘い
 ところで、文永の役の十数年前に元は樺太に兵を送り込みアイヌと戦闘を交えていることは日本ではほとんど知られていない。あの強大な元を相手にアイヌが約10年もかけて果敢に戦ったことは、驚嘆に値することではなかっただろうか。このことについては鎌倉幕府には何も情報を持っていなかったようである。このように当時の日本民族にとって蝦夷の地は最果ての地であり、全く見えていなかったのかもしれない。




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参考文献*************

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2015年12月7日月曜日

土地改革は朝鮮戦争を契機として、急進的な方法に変質し、そのことによる矛盾も多く噴出した

土地改革

2000年の間特徴づけられてきた中国農村の状況は一新された。まさに土地改革こそは、新生中国にとっての最重要課題であった。土地の均分を求める中国農民の二千年来の希求でもあったといわねばならない。

 これにより中国農村は新しく生まれかわり、地主階級が打倒されて土地を手にした農民(貧農・中農)による農業生産も著しい上昇を示した。その政治的な意義は、農村の権力構造を再編し、統治を社会の末端にまで浸透させるのに大きな役割を果たした。

土地改革は何?
 土地や農具等の財産を地主・富農などの大土地所有者から没収し、それらを貧しい農民に分配した改革である。その改革は土地改革法が公布された1950年6月から始まり、1952年の年末に完了した。

 この改革は当初、策定された「土地改革法」に基づき、比較的穏健な方法で時間をかけて行う予定であったが、公布直前になって発生した朝鮮戦争により事態は一変した。戦時経済体制の構築を急いだ政府は、改革のテンポは速められ、方式も急進化した。

土地改革のもたらしたもの
しかし、一方このような性急な方法は多くの矛盾を引き出した。
土地改革の結果、当初は著しく生産性は向上したが、53年になると早くも農業生産の停滞的な傾向もあらわれた。

  • 加えてこれらの土地改革はきわめて暴力的、急進的に行われ、華南や江南以外の地主制が発達していない地域においても、一律に富農・貧農に区別され、中農ですら土地を取り上げられ、著しい政治的抑圧を受けた。
  • 人口に一律に割り振ったため、日本の零細農家よりも小規模な農家を多量に生み出し、農業生産性が大幅に減少した。
  • 一方中国では土地売買は自由な経済活動として保証されており、改革後にも自由な経営を許せば、再び農家の階層分化が起きるという矛盾を持っていた。
  • そこで、1953年から統一購入・統一販売を導入した、一部には配給にもなったが、食料の不均衡配布のため、食糧暴動すら発生した。
  • この矛盾の解決のため、農業・農村の再編成が必要となり、1955年以降農業集団化が強行された。

農業生産の停滞と増強のプレッシャー
このような農業面での停滞は経済の基本的な部分を農業生産に依存している中国にとって、小土地所有農民に分割された小農経済がふたたび定着していくことにつながり、中国が目指す社会主義改造にとっても大きな障害になるものだと見なされた。
 加えて朝鮮戦争、冷戦の始まり、ソ連との軋轢など中国を取り巻く状況の変化は、生産増強へのプレッシャーはさらに強大なものとなった。

土地の私有化と集団化の矛盾
しかし、自分の土地をもてるようになるという期待こそが革命への参加の最大の動機であった多くの農民にとって、いったん自分のものとなった土地がふたたび集団所有化されていくことはきわめて深刻な矛盾であり、土地改革から農業集団化への歩みのなかには、さまざまな軋轢や緊張が生じたのであった。

中国共産党の二律背反と禍根
中国共産党はこの過程を段階革命論で合理化したが、結果的には中国国民に対する裏切りに等しい欺瞞的政策と非難を受けることとなった。この合理化とは「革命には段階があり、最初の段階で富農から土地を奪い、農民に与えるという無産者革命の段階、次の段階に革命が進めば、その土地を集団化して、社会主義路線に乗せることは革命の発展の過程である」というものであった。
 しかもこの土地改革は大衆的に、暴力的に行われ、多くの犠牲を伴った。こういった政治手法は、後の「百家斉放、百家争鳴」と「反右派闘争」でもそのまま踏襲され、文化大革命でも拡大発展(?)されることになり、中国共産党に対する根強い不信を植え付けることとなった。
 毛沢東は、中国の歴史の中での「XXの乱」といった反乱からよく学習し、大衆を動員し、その無差別的暴力を鼓舞し、攻撃を仕掛けるという手法を用い、その怖さを知り尽くしたうえでそれを100%利用したある意味では稀有の政治家ではなかったろうか。
 例えば秦の始皇帝や明の朱元璋のような暴君が恐怖政治で支配を強めたのに対し、毛沢東は彼らのように自らの暴力装置を前面に置かず、大衆を前面にたて、その暴力でもって支配したという意味では、はるかに高度な(?)政治手法だったと言えると思う。
 しかしながらそのような手法も、大衆の民度が低い場合に限って可能であり、今日の中国人民のように文化大革命を経験し、その中から多くのことを学んだ大衆に対してはそれを使うことはできないのではなかろうか。
 この手法を未だ使うことができる国は宗教が支配している国々が想定されるのだが・・・。

参考文献
「中国百科」 (P230,日本中国友好協会編、メコン社)
「中国現代史」 (P205、中嶋嶺雄編 有斐閣選書)


 「土地改革」  ☜ 詳しい説明はこちらをクリックしてください

2015年11月21日土曜日

中国近現代史 洋務運動と中国の近代工業の導入と近代化

洋務運動

アへン戦争以来の欧米との戦闘経験は、その軍事力の優越性を否応なく中国国民に認識させた。そこで1860年代より、清朝当事者の手による軍事分野の近代化が開始された。
  これを端緒として、はじめられた近代化・西洋化の取り組みを「洋務運動」と称する。以後日清戦争に至るまで、「西洋の実務」を取り入れるべく、複数の分野で近代化が推進されていった。
  • 近代工業導入と関連産業の近代化
  • 軽工業、石炭、鉱業、運輸、通信、交通

  • 総理衙門の近代外交
  • 外交

  • 洋務運動の限界と利点
  • 中体西用

    近代化の成果は、以後の中国社会の変革の重要な基礎
詳しい説明は 【洋務運動】 ☜ をクリックしてください


2015年11月17日火曜日

「義和団事件」:日清戦争後の民衆の蜂起は中国を更に苦しめる

義和団事件

事件の背景と顛末
 日清戦争以後、弱体ぶりを露呈した清朝に対して列強各国は各種の利権獲得など、進出の動きを強めることとなった。さながら中国は帝国主義国の草刈り場の観を呈することとなった。
 このことで、列強帝国主義の抑圧は直接民衆に降りかかり、排外主義の高まりを促した。そうした背景の中で、農村各地の民間結社が、義和団運動となって、連鎖的に排外活動の色彩を帯び、暴徒化し、都市部では、電信線や鉄道など広く外国に由来する事物を破壊するようになった。こうした事態を各国は、千載一遇のチャンスととらえ、居留民保護を名目に北京へ派兵した。
 これに対して清朝内部では、列強がこれを機に中国分割を実行することを危慎する意見が台頭し、各国軍との軍事衝突が発生した。これを事実上の開戦と理解した西太后は1900年 6 月宣戦を発し、ここに事態は英・仏・米・独・奥 ( オーストリ ア ) ・伊・露・日の 8 ヵ国連合軍と清朝との戦争に発展した。これが義和団事件である。
 これを映画化したのが、「北京の55日」という映画である。チャールトン・ヘストン主演だった。義和団は映画では悪役であるが、今日の中国では義賊として、半ば英雄視されている。

 事件の結末
 8 ヵ国連合軍は清朝正規軍および義勇兵に編入された義和団との戦闘を継続し、同年 8 月に北京を攻略・占領し、西太后らは西安に逃れた。
  その後は李鴻章が講和交渉の任にあたり、 1年近くをかけて 1901 年 9 月に北京議定書が成立した 。 これにより、清朝は莫大な賠償金をを39 ヵ年にわたって支払うなど、重い代償と引き替えに講和は成立した。
 このことはこうした事態を招いた自らの「後進性」の直視とともに、徹底した改革の必要性が西太后以下、政府当事者から在野の知識人に至る社会指導層の共通認識となっていった。 しかし、時すでに遅しで、慎重にはこれに対応する力はもう残されてはいなかった。

詳しい説明は 【義和団事件】 ☜ をクリックしてください

二度にわたる国共内戦と日中戦争 蒋介石

国共内戦

中国は二度にわたる国共合作を行い、それに対応して2度の国内内戦を経験している。しかしこれらの2度にわたる国内内戦は、いずれも蒋介石が仕掛けたものであり、その意味では蒋介石側にとって大義がなかったといわねばならない。
  二度目の国内内戦は、先の戦争における日本に対する勝利は、国共両党にとって、統一戦線を維持する根拠が喪失したことを意味した。
 大義もなく内戦を始めた蒋介石は、「新民主主義革命論を掲げ、資本主義発展を当面の間は認め、農村の根拠地では、土地改革を実施し貧しい農民の圧倒的支持を得ていた」共産党を中心とする統一戦線に敗れ、国内内戦に敗れ台湾に逃れることになる。
 同時にこの時期には毛沢東は共産党の中でその権力を確立し盤石なものとしていた。
詳しい説明は 【国共内戦】 ☜ をクリックしてください