2015年11月17日火曜日

二度にわたる国共内戦と日中戦争 蒋介石

国共内戦

中国は二度にわたる国共合作を行い、それに対応して2度の国内内戦を経験している。しかしこれらの2度にわたる国内内戦は、いずれも蒋介石が仕掛けたものであり、その意味では蒋介石側にとって大義がなかったといわねばならない。
  二度目の国内内戦は、先の戦争における日本に対する勝利は、国共両党にとって、統一戦線を維持する根拠が喪失したことを意味した。
 大義もなく内戦を始めた蒋介石は、「新民主主義革命論を掲げ、資本主義発展を当面の間は認め、農村の根拠地では、土地改革を実施し貧しい農民の圧倒的支持を得ていた」共産党を中心とする統一戦線に敗れ、国内内戦に敗れ台湾に逃れることになる。
 同時にこの時期には毛沢東は共産党の中でその権力を確立し盤石なものとしていた。
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2015年11月15日日曜日

国共合作と対立の克服 対日統一戦線の成立

国共合作と対立

国共合作は1924年に第一次、そして1937年に第二次と2度にわたって行われている。
 それらはいずれも形の上では中国国民党と中国共産党の相対立する2つの党による合作であった。絶対に交じり合うことのない彼らが、どうして交じり合うことができたのだろうか?かつての日本人はそのことをきっちり読むことができていたのだろうか?その鍵は時代背景にあり。それを読む力は歴史を勉強する以外に付けることはできない。
 どの時も列強の帝国主義的搾取と収奪が激化し、それに対する大衆運動や労働運動が盛り上がり、統一戦線が大きな広がりを見せていた。
 第2次国共合作では第一次と少し趣が異なる。第2次国共合作の直接の原因となったのは、日本の
関東軍に列車ごと爆破された張作霖の息子の張学良が引き起こした西安事件である。
 さらにこの時期は日本の侵略に対して、中国人の反日感情が大きく盛り上がっていたことに加え、蒋介石が率いる国民党と毛沢東が率いる共産党は依然として厳しい内戦を続けていたものの、共産党は戦力においても、党員数においても、そして大衆的にも第1次の国共合作の時期と違って大きな陣容を擁していた。
 しかしながら、この二度にわたる合作により、ようやく反日の統一戦線が成立し、日本を中国から放逐する舞台が整い、反日の闘いが中国としての統一して大きく前進することになる。
(中島嶺雄著 「中国現代史」参照)


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2015年11月13日金曜日

抗日戦争:盧溝橋事件に端を発した「日中全面戦争」のこと

抗日戦争は、1945年日本の無条件降伏に至るまで戦われた日中全面戦争

盧溝橋にある抗日記念館
もうすぐ7月7日が巡って来る。中国の国民にとってはこの日に起こった盧溝橋事件に端を発し、日本軍により中国国内に全面的に蹂躙されるきっかけとなった「屈辱の日」である。  抗日戦争とは、盧溝橋事件に端を発し、1945年日本の無条件降伏に至るまで戦われた「日中全面戦争」のことである。日本では1931年から45年までの15年間を称して、「日中15年戦争」と呼ぶことがある。蒋介石の率いる国民政府はこの時点では共産党との交戦を続けていたが、しばらく後で起こった西安事件をきっかけに国共合作が成立し、中華民国は「抗日」のスローガンの元に統一されることになる。

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2015年10月31日土曜日

国民政府と蒋介石の歴史的評価の見直しが進む

国民政府と蒋介石

蒋介石を祀る中正紀念館
1925年5月には上海で五・三○運動が始まって反帝国主義、民族主義の運動の高揚を背景に、蔣介石は広州の軍閥を駆逐し、国民政府を樹立した。これから、武漢、南京、重慶、台湾と転々としながら長く続いた。従来はその反共主義、対日妥協政策などが厳しく批判されてきた。蒋介石はその中で一貫して権力の中枢の座にあり、良くも悪くも彼を抜きにして国民政府は語ることができない。
 そして中国国内では近年その見直しが進んでいる。国民政府の時代の中には、その反共主義的なかたくなな態度から、長い間中国を分断に導き、近代国家としての出発を大きく遅らせたなどのマイナスの側面も大きい反面、国共合作の時代もあり、中国共産党と協力して対日戦線で勝利したことや、中国の主権の回復、経済発展などに功績を残すなどのプラスの側面もあり、再評価が進んでいる。

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2015年10月4日日曜日

明朝の成り立ち

明朝の成り立ち

 明は1368年 - 1644年に元のあと中国を支配した王朝である。

  中国史上で平民から身をおこして王朝の創業主となったのは、漢高祖と明太祖の二人だけである。貧農のみなしごに生れた
明の初代皇帝 朱 元璋
朱元璋は飢饉から免かれるために仏寺に入り、托鉢僧として流浪するうちに、文字をおぼえ詩文までつくれるようになった。
 この点では文字が読めなかった漢高祖にくらぺると知識人であったが、太祖は漢高祖を崇拝し、軍事・政治のやり方をすっかり手本とした。しかし漢高祖の性格は明るく、功臣からも敬愛されていた。
 明太祖の性格は暗く、底知れぬ残酷さによって功臣に恐怖をあたえた。この暗さが明王朝の政治に大きな陰影を投じたことは争えない。ここではその太祖の性格の暗さが明朝の政治には暗い影を落す?
 明の皇帝は初代の洪武帝と2代目の建文帝から力ずくで王位を奪い取った永楽帝の2人だけが傑出していて、あとは暗君であったようで、この近代に橋渡しをすべき大事な時に宦官が政治を左右したということは中国の最大の不幸というべきかもしれない。

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2015年8月17日月曜日

「中国百科ノート 歴史編」 唐末~宋の時代と北方民族の国家 P190 をアップしました

唐宋の変革の時代をアップしました

唐の滅亡
 さしもの巨大な勢力を誇った唐も、755年の安禄山、史志明による安史の乱、そして9世紀後半の黄巣の乱により、907年節度使の朱全忠に滅ぼされた。

五代十国の始まり
 その後比較的短期間ではあるが、五代十国という5つの王朝と10余りの地方政権が林立する分裂と混乱の時代に突入する。そしてこの間、貴族層は没落し、農業技術の発達、産業の発展などで新興地主層が台頭し、政治社会、経済に大きな変化が見られた。(一般的に「唐宋変革」といわれる。)

宋の建国
 やがてこの混乱の中で、五代後周の将軍であった趙匡胤が960年に皇位に即位して以来、宋(北宋)を建国し、中国を統一した。この宋代に伝統中国社会の基礎が築かれたといわれる。
 またの7,80年の混乱の中では、それまで漢民族に辺境に押しやられていた民族が、長い間に力をつけ、漢民族に対抗する力をつけ独自の民族自身の国を建立した時代であった。それも単に中華の一地方を征服するだけではなく、強大な世界帝国を建立するまでになった国もいる。彼らはいずれも漢民族の優れたとこをを学び取り、統治する術を学んでいった言えるのではないか。


  唐末から宋の建国までの混乱の時期は何を準備したか  ☜ 詳しい説明はこちらをクリックしてください


2015年2月16日月曜日

「中国百科ノート 歴史編」 明末清初の時代、生産力の増大 P196をアップしました


明末清初はどのような時代だったのか

明朝の末期と清朝の始まりの時期の社会
 中国では旧王朝が滅び、新王朝が成立する時期には、人口の急激な減少が起こっている。
 事実明の最初の時期1381年には人口は59百万人であったものが、明が滅亡した1644年には人口は約10百万人に減少してしまっている。
 明末には魏忠賢の宦官の専横が激しく、東林学派との間で激しい政治闘争が起こり、世の中は大いに乱れた。
 また明の最盛期には鄭和の率いる大船団の艦隊で世界に乗り出したにもかかわらず、明の後半になるとアッサリと海外に乗り出すことをやめてしまっている。
 
産業の発展と資本主義の萌芽
 明朝の末期には急激な人口減少がみられたものの蘇州などでは、地の紡績業中多くの生産商品を目的とする工業家が出現した。彼らは工場を開設し職工を雇って生産に入り、工場出資、職工生産方式が出現した。
 このことは明代に既に資本主義の萌芽が出現していたことを示している。この工業は最初絹織物を中心とする家内制手工業の形態であったが、次第に大規模生産の綿織物、金属冶金業、製油業などで大規模な工場をもち、賃労働者という資本主義の萌芽携帯といえるような状態まで発展していた。

 また農業生産においては、既に見たようにアメリカ大陸の発見、ヨーロッパ列強の植民地拡大などによりアメリカ原住民の農産物がもたらされるようになり、中国においてもこれら農産物の栽培が定着し生産性が拡大するようになって来た。

 この時代は中国においても、資本主義の萌芽が見られるようになり、新しい時代への準備が徐々に(しかしかなり緩やかに)進んだ時代とも言える。