2020年7月10日金曜日

日清戦争前夜の世界は弱肉強食の世界だった


日清戦争前夜の世界情勢

弱肉強食の世界
日清戦争は、欧米列強による植民地争奪戦の中で起きた

 アメリカヨーロッパで、19世紀後半から20世紀全般にかけ、第2次産業革命が起こり、電気、石油をエネルギーとする重工業化の波が押し寄せた。
 列強各国は、新たな消費地を求めアジア・アフリカに進出し、強盗的手段で、植民地化にまい進し、下記のような植民地争奪戦が行われた。

 日本も明治維新を成し遂げ、近代国家の仲間入りを果たそうとし、富国強兵策を取り入れ、台湾、朝鮮、中国へと手を広げていった。
 一方中国はある意味清朝が巨大でありすぎたため、近代化の波に乗り遅れ、さらには巨大な消費地を抱えていたために列強各国の絶好の餌食となった。しかし中国がアフリカと違い植民地に分割されるのを免れたのは、それまでに高い文化を誇り、世界に冠たる位置を維持していたからである。


20世紀初植民地Map
By Andrew0921


世界列強によるハゲタカ的世界の簒奪の背景や動機と考えられる出来事
  1. アフリカを奴隷の供給地と見るのではなく、地下資源などの工業原料供給地と、自国の工業製品の市場として見るようになった。
  2. 普仏戦争・・1870~71年ドイツ統一をめざすプロシャと、これを阻もうとするフランス(ナポレオンによる第2帝政)との間で行われた戦争。
    この戦争後フランスは第2植民地帝国として、世界各地の植民地化に乗り出した。
  3. ヨーロッパにおける世界的大不況(1873年から1896年にわたる世界的な構造不況である)により市場が萎縮していたこと 
  4. 第2次産業革命の結果、大量消費先を作り出す必要があったこと・・第2次作業革命とは、ドイツやアメリカで起こった産業革命は、石油や電力をエネルギー源とする鉄鋼・機械・造船などの重工業や化学工業中心とした。
  5. アジアへの侵略
南アメリカと植民地
 南アメリカが19世紀後半の列強による植民地化の毒牙から逃れたのは、南アメリカにおいては、北アメリカにおいてアメリカがイギリスから独立していたこと、さらに19世紀前半、フランス革命の影響を受けて、多くの国で独立を成し遂げていたことが幸いしたことも大きいと考えられる。

 さらに、1823年、アメリカ第5代大統領モンローによる、「モンロー宣言」がだされ、
  1. アメリカ大陸は,今後ヨーロッパ諸国によって将来の植民の対象と考えられるべきではないこと,
  2. アメリカはヨーロッパの政治に介入しないこと,
  3. ヨーロッパ諸国の圧迫その他の方法による西半球諸政府に対するいかなる干渉もアメリカへの非友好的意向の表明とみなすこと
  4. 要はアメリカ大陸に手を出すなという宣言も大きく影響していたと考えられる。

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2020年7月5日日曜日

晋・南北朝:魏呉蜀の三国時代の後350年ほど続いた。北朝を中心に胡族と漢族の融合が進み新たな文化が生み出された

晋・南北朝:北朝を中心に胡族と漢族の融合が進み新たな文化が生み出された

晋・南北朝「貴族の時代」

一部の氏族が高級官僚を独占し、中央官僚を独占した一部の氏族による広大な荘園化が進んだ


南北朝とはどのような時代であったか?
 魏・呉・蜀の 3 国に分裂した中国を再統ーしたのは、魏から禅譲を受けた晋であった (265年 ) 。しかし、王族の内紛と異民族の侵入によって、 30 年あまりで晋の統ーは崩壊した。
 晋の一族の司馬睿は江南に逃れて建康 ( 現在の南京 ) で即位し、晋を復興した。これを東晋 (317ー 420 年 ) と呼び、それ以前の西晋と区別する。

南北朝時代
 その後、この東晋を受け継いだ形で宋・斉・梁・陳と禅譲を繰りしながら 250 年以上にわたって華南を支配した。これを南朝と呼ぶ。
  一方、華北では、304年前趙(趙)の建国より439年北魏(魏)が統一するまでの間、五胡 ( 匈奴・鮮卑・羯・氐・羌) が政権を建てたが、最終的に鮮卑族が建てた北魂が統一する(AD439年)。この間のことを五胡十六国時代と呼ぶ。
 華北では胡族と漢族の融合が進み新たな文化が生み出された。一部の氏族が高級官僚を独占していたが、特に華南では、貴族による大規模な荘園が進んで、江南の開発が進んだ。


貴族の時代
 魏晋南北朝に魏の九品中正を経て貴族社会が形成されたと一般的に言われている。かれらはいわゆる門閥貴族であり、同じように血統的に特権的な地位を継承した。彼らは律令制の下でも蔭位の制などによって特権的な地位を維持し、荘園を経済的な基盤として支配的な地位を守っていた。
 しかし、この制度は、隋にはじめる「科挙」により、貴族が官僚制度の中に組み込まれ、貴族はその力を失う。宋代には、現地で佃戸を抱える新興地主であり、かつ知識人として官僚となっていった科挙合格者の士大夫がその力を持つことになる。




2020年7月4日土曜日

文化大革命は毛沢東が発動した政治運動である。これを許した体制の後進性が清算されていない恐ろしさが顕在化

文化大革命

文化大革命は中国の後進性を体現した
 文化大革命 ( プロレタリア文化大革命、略称は文革 ) は 1966 年に毛沢東が発動した政治運動であり、中国の政治・経済・文化等あらゆる方面に深刻な混乱と停滞をもたらした。その背景には、中国が米ソ2 超大国と対立するという緊迫した国際情勢があり、また それとリンクした毛の国内外の情勢に対する過剰な危機感があった。
 「中国共産党簡史」によると、毛沢東の発動したこの”大革命”の出発点は資本主義復活を防止して、党の純潔性を維持し中国自身の社会主義建設の道を追及することであった。
 ただ彼は党と国家政治状況に対して既に非常に大きな間違った固定概念に囚われていた。
発動の背景
  • キューバ危機の際、ソ連が当事国の了解を得ぬまま勝手にアメリカと手を打ったことに対する不信感が根強くあった。中国もソ連修正主義の手によって、アメリカと手を打たれるのではないかという恐れを抱いていた。
  • 中国が米ソ2 超大国と対立するという緊迫した国際情勢があり、また それとリンクした毛の国内外の情勢に対する過剰な危機感があった。
  • たとえば、最悪の場合重要施設は内陸へ移して守るべく、1964 年以降、西南地域の奥地に工場を移転・新設する「三線建設」が推進された。
  • ソ連との国境紛争の危機も高まり、長い国境を有するソ連への危機感が次第に増大していった。
  • 国内においては、自らの数々の政策の失敗に対する国民の批判の高まりもあり、毛は焦りを感じていた。
  • なにより、毛には中国人民と中国共産党に対する根強い不信感があり、ある意味強い強迫観念にとらわれていた。
文革の過程
  1. 前期 :
      運動はまず、ブルジョア的思想・文化に対する闘争として開始された 。 1965年11月、新編歴史劇「海瑞罷官」に対する批判が文革の口火となった。 1966年 5月、康生・陳伯達・張春橋、そして毛沢東の妻・江青 ( のちの「四人組」 ) を中心メンバーとする中央文革小組が成立し、文革が本格的に開始する。
     毛は、思想的にも深いものはない自己顕示欲が強いだけのエキセントリックな妻とその側近を抜擢し、国防部長の林彪を味方につけた 。
    さらに、毛を熱狂的に信奉する若者たちからなる紅衛兵を煽って、政府や党機構を破壊させた。
     党が結党以来、革命闘争や抗日戦争の中で累々と積み上げてきた人民との信頼関係はずたずたにされ、よき風習も紅衛兵の泥靴で踏みにじられた。私は毛沢東の最大の罪悪はここにあると思っている。
     そしてここにこそいまなお払拭できていない中国の民主主義の後進性があると考えている。
    この期間を通じ、林彪は力を伸ばし、1969年の第九回党大会では毛の後継者に指名された。

  2. 中期
     毛の文革の発動の狙いは自らの政策の失敗に対する国民の批判の目をそらすことにあり、「反ソ」を煽り立てることにより、中ソ間の緊張はいよいよ高まった。対米接近が模索されるようになったが、それを主導したのは周恩来ら実務官僚グループであり、林彪グループは孤立し、失脚していった ( 林彪事件 ) 。

  3. 後期
      1971 年のキッシンジャー訪中、 1972 年 2月のニクソン訪中で米中の関係改善が実現し、日本とも同年 9月、田中角栄首相が訪中し、国交を正常化した。
    こうして国際緊張の緩和が進み、これを背景に国内では 周恩来と復活した邓小平らが秩序を回復し、経済再建措置をとろうとした。 四人組は、1976年 9月毛沢東が亡くなり、後ろ盾がなくなるとまもなく失脚し、文革はようやく終結した 。

結び この教科書では、文化大革命の要因を以下のように見ている。文化大革命そのものについては、それでいいのかもしれないが、しかしもう一歩突っ込んだ分析がほしいところである。なぜなら文革をどう見るかが、現在の中国を如何に判断するかにかかわってくると思うからだ。
 「文革は毛沢東が起こした権力闘争とみなされることが多いが、それだけにとどまらない要素が複雑に絡んでいた 。 中国全土が 10 年にもわたり 動乱状態に陥ったのは、建国以来の社会主義建設が各方面において矛盾を蓄積していたからであり、民衆の不満が一気に爆発したのも一因であった 。」

中国共産党の「党史研究室」というところが、発行した「中国共产党简史」という本の中で、文革の総括に触れている。
    文化大革命については、全面的かつ長時間の左傾の誤りは毛沢東の主要な責任に負うところが大きい。ただしこの誤りは結局は中国の社会主義への道の探索中に犯した誤りである。毛沢東はいつもわれわれ党内と国家生活の中に存在していた欠点に注意していた。しかし晩年、多くの問題についてはその上正確な分析ができなかった。しかもさらに文化大革命の中で、敵とわれわれの是非が混沌としていた。・・彼は終始自己の理論と実践がマルクス主義的であると認識していた。強固なプロレタリア階級の独裁の必要欠くべからざるところであると考えており、これが彼の悲劇の所在である。毛沢東は全ての局面でも文化大革命的な誤りを堅持した。但し制止と糾正もまた誤りを犯した。

 10年にも及ぶ全国家レベルで犯した誤りの総括にしてはあまりにもお粗末ではないだろうか。毛沢東の個人的な誤りもさることながら、なぜその誤りを党として是正できなかったのか。党としての構造的欠陥を持っていたのではないのか。毛沢東をあそこまで祭り上げたのは誰なのか。長年にわたる失政にも拘らず、その真の原因を曖昧にし、個人的崇拝を強めた結果ではないのか。中国は歴史から学べと日本によく言う。しかし自らはどうなのか?襟を正すべきではないのか。誤りを認めることは本当に勇気のいることである。そのことにより予期せぬ事態を生むかもしれないことはよく分かる。だからこそここまで事が大きくなる前に、ここの事象が現れた時点で、真摯に総括し、誤りを是正することが不可欠だと思う。むかし、中国軍は人民の財産は鉛筆一本取らないという気高きモラルを具えていたと聞いている。それが今ではどこに行ったのだろう。
 日本ももちろん過去に犯した過ちは率直に謝るべきである。口先だけではなく具体的行動に示すべきである。日中両国の真摯な態度が今何より求められるべきではないのだろうか。
 今現時点で何をなすべきか? それは、直ちに過去の総括を真摯にし、今の政策と姿勢を少しずつ、是正して行くことではないだろうか。まずは一番分かりやすいのは、汚職、腐敗構造を改めることだろう。そうすることによって、中国の権威は高まり、アジアばかりではなく世界中の人々からもろ手を挙げて歓待されるようになるだろう。今の中国はそのように方向転換しても、国家が揺らぐような柔な状態にはないだろう。
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台湾の歴史 長い間翻弄され続けてきた台湾が、ようやく自分の足で歩き始めた

台湾の歴史 長く先住民が支配していたが、1600年代初頭に世界に開かれるようになった

 「台湾」という用語について
 ここでいう台湾は、一般的概念で言う台湾を言うのであり、中国政府が主張する「一つの中国」でいう「台湾」を指しているわけではない。現在の複雑な状況の中では、政治的にあまりシビアな線引きをしない態度をとることをお許し願いたい。
 台湾の歴史
 「一つの中国」のスローガンの下に、台湾が国際社会の第一線の舞台に姿は見せなくなったが、現実の社会では、その姿は一層輝きを増している。  台湾の歴史は古く、古く氷河期の時代には、既に大陸から人類が移住し、文明の花を開かせたことは証明されている。しかし、台湾が歴史の表舞台に登場してくるのは、明朝の「大航海時代」以降のことであるといって差し支えない。ここでは、中国歴史ほど大きく知られていない「台湾の歴史」を概括的に振り返ることにしよう。
さらに地政学的な観点から、台湾の地理についてぜひ「中国百科 地理編「台湾」についてもぜひご参照願いたい。
台湾の歴史
台湾は大きく次の5つ時代区分に分かれるとしている。以下台湾の歴史をこの歴史区分に基づき、大まかに振り返ってみたい。
先史及び原住民時代 (1624年以前)
    地質学の研究によれば今から300万年から1万年前の更新世氷河期の時代、台湾は中国大陸と地続きであり、大陸から人類が台湾に移住し、居住していたと考えられている。
    新石器時代以降の先史文化は台湾南島語系民族によるものであり、現在の原住民が台湾に定住する以前に、別の族群が台湾に居住していた可能性を示している。
    台湾原住民はオーストロネシア語族に属し(注オーストロネシア語族については、「中国百科攻略ノート 民族宗教編」 高山族とモンクメール語群の諸民族をクリックしてください。)、古くは中国大陸南部に居住していたと考えられている。その後北方漢民族などの圧力を受けて台湾に押し出され、そこから南太平洋一帯に進出していったという説が有力である。しかしその足跡は未だ未解明な部分が多い。

オランダ占拠時代(1624年 - 1662年)
    16世紀の明朝時代になると、大航海時代にあったヨーロッパ各国から多くの人々が来航するようになり、台湾の戦略的重要性に気がついたオランダやスペインが台湾島を「領有」し、東アジアにおける貿易・海防の拠点としていった。そのために、日本への鉄砲やザビエルによるキリスト教伝来も、おそらくは台湾を経由してきたのだと思われる。
    また、そのころ日本の豊臣秀吉は「高山国」宛に朝貢を促す文書を作成し、原田孫七郎という商人に台湾へ届けさせた(高山国とは実質的には存在せず朝貢の目的は果たせなかった)。
    台湾島の領有を確認できる史上初めての勢力は、17世紀初頭に成立したオランダの東インド会社である。東インド会社はまず明朝領有下の澎湖諸島を占領した後、1624年に台湾島の大員(現在の台南市周辺)を中心とした地域を制圧して要塞を築いた。だが、台湾の東インド会社は1661年から「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功の攻撃を受け、進出開始から37年で台湾から全て駆逐されていった。

明鄭統治時代(1662年 - 1683年)
    明が完全に滅んでも、「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保するために台湾のオランダ・東インド会社を攻撃し、1662年に東インド会社を台湾から駆逐することに成功した。台湾の漢民族政権による統治は、この鄭成功の政権が史上初めてである。
    歴史上の鄭成功は、目標である「反清復明」を果たすことなかったが、台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実であるため、鄭成功は今日では台湾人の精神的支柱(開発始祖)として社会的に極めて高い地位を占めている。 なお鄭成功は清との戦いに際し、たびたび江戸幕府へ軍事的な支援を申し入れていたが、支援は実現しなかった。しかしこの戦いの経緯は日本にもよく知られ、後に近松門左衛門によって国性爺合戦として人形浄瑠璃化された。

満清支配時代(1683年 - 1895年)
     清は台湾島を領有することに積極的ではなかったが、最終的には軍事的観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置し、福建省の統治下に編入した(台湾道(中国語版)、1684年-1885年)。ただし清朝は、台湾を「皇帝の支配する領地ではない」、「中華文明に属さない土地」として統治には永らく関心を示さず、特に台湾原住民については「化外(けがい)の民」として放置し続けてきた。その結果、台湾本島における清朝の統治範囲は島内全域におよぶことはなかった。なお、現在、中華民国政府と中華人民共和国は、台湾のみでなく釣魚島(尖閣諸島)にも清朝の主権が及んでいたと主張している。

    清朝編入後、台湾へは対岸に位置する中国大陸の福建省、広東省から相次いで多くの漢民族が移住し、開発地を拡大していった。そのために、現在の台湾に居住する本省系漢民族の言語文化は、これらの地方のそれと大変似通ったものとなっている。台湾南部から始まった台湾島の開発のフロンティア前線徐々に北上し、19世紀に入ると台北付近まで本格的に開発されるようになった。この間、清朝では女性の渡航を禁止したために、台湾には漢民族の女性が少なかった。従って漢民族と平地に住む原住民との混血が急速に進み、現在の「台湾人」と呼ばれる漢民族のサブグループが形成された。また、原住民の側にも平埔族(へいほぞく)と呼ばれる漢民族に文化的に同化する民族群が生じるようになった。
     19世紀半ばにヨーロッパ列強諸国の勢力が台湾にも及ぶようになった。
     1871年、宮古島島民遭難事件が起こった。これは、宮古、八重山から首里王府に年貢を納めて帰途についた船4隻のうち、宮古の船の1隻が、台湾近海で遭難し、台湾上陸後に山中をさまよった者のうち54名が、台湾原住民によって殺害された事件である。日本政府は清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民(国家統治の及ばない者)」という返事があり、慎重の当地の範囲外との見解が示されため、日本の出兵の口実を与えてしまった。1874年には日本による台湾出兵(牡丹社事件)が行なわれた。 1884年 - 1885年の清仏戦争の際にはフランスの艦隊が台湾北部への攻略を謀った。
     清朝は日本や欧州列強の進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、台湾の防衛強化のために知事に当たる巡撫(じゅんぶ)職を派遣した上で、1885年に台湾を福建省から分離して台湾省(1885年-1895年)を新設した。台湾省設置後の清朝は、それまでの消極的な台湾統治を改め、近代化政策を各地で採り始めた。

     だが、1894年に清朝が日清戦争に敗北したため、翌1895年4月17日に締結された下関条約(馬關條約)に基づいて台湾は清朝から大日本帝国に割譲され、これ以降、台湾は大日本帝国の外地として台湾総督府の統治下に置かれることとなる。

日本統治時代(1895年 - 1945年)
     台湾が本格的に開発されたのは日本統治時代になってからである。
     1896年に三一法が公布され台湾総督府を中心とする日本の統治体制が確立した。「農業は台湾、工業は日本」と分担することを目的に台湾での農業振興政策が採用され、各種産業保護政策や、鉄道を初めとする交通網の整備、大規模水利事業などを実施し製糖業や蓬莱米の生産を飛躍的に向上させることに成功している。また経済面では専売制度を採用し、台湾内での過当競争を防止するとともに、台湾財政の独立化を実現している。
     また初期段階後、近代化を目指し台湾内の教育制度の拡充を行った。義務教育制度が施行され、台湾人の就学率は1943年の統計で71%とアジアでは日本に次ぐ高い水準に達していた。義務教育以外にも主に実業系の教育機関を設置し、台湾の行政、経済の実務者養成を行うと同時に、大量の台湾人が日本に留学した。 台湾の併合にあたり、台湾人には土地を売却して出国するか、台湾に留まり帝国臣民になるかを選択させた。
     1895年に台湾が大日本帝国に編入された時、併合に反対する台湾住民は、「匪徒刑罰令」によって処刑された。その数は3000人に達した。抗日運動は、1915年の西来庵事件(タパニ事件)で頂点に達した。
     当時の台湾は衛生状態が非常に悪く、多種の疫病が蔓延していた。特に飲み水の病原菌汚染が酷く、「台湾の水を5日間飲み続けると死ぬ」とまで言われていた。そこで後藤新平が近代的な上下水道を完成させた。また、台湾南部の乾燥と塩害対策として、八田與一が烏山頭ダムと用水路を建設した。この八田の功績に対して、現在でも八田の命日には毎年地元住民による感謝と慰霊が行われている。
     太平洋戦争が勃発すると、台湾は日本の南方進出の前哨基地として重要戦略拠点として位置づけられる。軍需に対応すべく台湾の工業化が図られ、水力発電所を初めとするインフラ整備もこの時期に積極的に行われた。
     社会面では当初は植民地としての地位にあった台湾であるが、日本国内で大正デモクラシーが勃興する時期に台湾でも地方自治要求が提出され、台湾人としての権利の主張が行われている。これらは台湾議会設置請願運動となって展開された。しかし、これが実った時期は、日本統治時代末期の1935年であった。この1935年に地方選挙制度が施行されるようになり、台湾においても地方選挙が行われ地方議会が開かれることとなった。

中華民国占拠時代(1945年 - 1996年)
    台湾国民政府時代
    1949年12月7日:蒋介石、台湾において国民政府を再稼動し、実効統治区域内で戒厳を発令。
    1950年1月:蒋介石、総統職に就任。政府の活動が本格化。
    1952年4月28日:サンフランシスコ講和条約(1951年9月8日調印)の発効と日華平和条約の調印(8月5日発効)。これらの条約により、日本は台湾の権利、権原および請求権を保持しないことを宣言(ただし、両条約とも台湾の帰属先を明言したものではない)。中華民国政府と日本の国交が成立。
    1958年:金門県で、中国人民解放軍との間に八二三砲戦が勃発。
    1971年10月25日:国際連合総会にて、国際連合総会決議2758が可決され、「中国」の代表権を喪失。同時に国際連合から脱退。
    1972年:日本国と中華人民共和国の国交樹立により日華平和条約が失効。日本との国交を断絶。
    1975年4月5日:蒋介石総統死去。1978年に息子蒋経国が跡を継ぎ総統となる。
    1979年12月:美麗島事件が勃発。
    1987年:台湾島で戒厳を解除、その後に他地域でも順次解除。
    1988年1月:蒋経国総統死去。李登輝が総統代行に就任。
      李登輝
    1990年5月:李登輝が正式に総統に就任。


民主化時代(1996年 - 現在)
    1996年3月23日:直接選挙による総統選出が実施され、李登輝が当選。
    2000年:総統に民主進歩党の陳水扁が選出され、中国国民党が初めて野党となる。
    2002年:台湾・澎湖・金門・馬祖個別関税領域として、世界貿易機関に加盟。
    2004年:陳水扁が民選総統として初めて再選される。
    2005年:連戦国民党主席が中華人民共和国を訪問。胡錦濤共産党総書記と1945年以来60年ぶりの国共首脳会談を行う。
    2008年:総統選で中国国民党主席の馬英九が民進党の謝長廷を破って当選し、国民党が8年ぶりに政権を掌握。
    2012年:馬英九が総統に再選される。
      蔡英文
    2016年:蔡英文、中華民国総統に就任した
    2020年:2020年総統選で1996年の直接選挙以来過去最多の得票数の8,170,231票で中国国民党の韓国瑜、親民党の宋楚瑜を破り、再選を果たす
    2020年5月20日:中華民国総統2期目をスタートさせ、また同日、民主進歩党の主席に復帰した。


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    2017年12月16日土曜日

    文化大革命の本質は毛沢東の、毛沢東による、毛沢東のための権力闘争

    文化大革命

    文化大革命の概要

    文化大革命 ( プロレタリア文化大革命、略称は文革 ) は 1966 年に毛沢東が発動し、江青の4人組の失脚により終結した10年に及ぶ政治運動であった。

    文革の背景 

       当時の中国は、朝鮮戦争での経済の立ち遅れと同時に、冷戦の下での中国包囲網、いくつかの重要施策の失敗に伴う国内の矛盾の激化、不満が増大していたことに加え、国内の封建的遺制が残存し、経済の進展を阻んでいた。
       さらに国際的には、キューバ革命やベトナム戦争におけるソ連との路線の違いが浮き彫りになり、中国の頭越しにソ連とアメリカが妥協して、中国を追い詰める危険性が危惧された。
    毛沢東


    文革の狙い 
     そこで毛沢東は、

    • 国内の封建的遺制の一掃
    • 米ソの国際協調による中国封じ込め政策の打破
    • 国際的包囲網に対抗しうる軍事体制の強化と整備
    • 国際協調路線を排除し、妥協を排除し党の純潔性を維持し中国自身の社会主義建設の道を追及する
    • 数々の失政による国内の不満を逸らし、独裁体制を確立する

    文革の過程


      • 前期 :
      • 運動はまず、ブルジョア的思想・文化に対する闘争として開始された 。 1965年11月、新編歴史劇「海瑞罷
        官」に対する批判が文革の口火となった。 1966年 5月、康生・陳伯達・張春橋、そして毛沢東の妻・江青 ( のちの「四人組」 ) を中心メンバーとする中央文革小組が成立し、文革が本格的に開始する。
         さらに、毛を熱狂的に信奉する若者たちからなる紅衛兵を煽って、政府や党機構を破壊させた。この期間を通じ、林彪は力を伸ばし、1969年の第九回党大会では毛の後継者に指名された。

      • 中期
         毛の文革の発動の狙いは自らの政策の失敗に対する国民の批判の目をそらすことにあり、「反ソ」を煽り立てることにより、中ソ間の緊張はいよいよ高まった。対米接近が模索されるようになったが、それを主導したのは周恩来ら実務官僚グループであり、その中で林彪グループは失脚していった ( 林彪事件 ) 。

      • 後期
          1971 年のキッシンジャー訪中、 1972 年 2月のニクソン訪中で米中の関係改善が実現し、日本とも同年 9月、田中角栄首相が訪中し、国交を正常化した。
        こうして国際緊張の緩和が進み、これを背景に国内では 周恩来と復活した邓小平らが秩序を回復し、経済再建措置をとろうとした。 四人組は、1976年 9月毛沢東が亡くなり、後ろ盾がなくなるとまもなく失脚し、文革はようやく終結した 。
       
      結び
       この教科書では、文化大革命の要因を以下のように見ている。

        「文革は毛沢東が起こした権力闘争とみなされることが多いが、それだけにとどまらない要素が複雑に絡んでいた 。 中国全土が 10 年にもわたり 動乱状態に陥ったのは、建国以来の社会主義建設が各方面において矛盾を蓄積していたからであり、民衆の不満が一気に爆発したのも一因であった 。」

      「中国共产党简史」: 中国共産党は文革をどう評価しているか(中国共産党、「党史研究室」発行)

        文化大革命については、全面的かつ長時間の左傾の誤りは毛沢東の主要な責任に負うところが大きい。ただしこの誤りは結局は中国の社会主義への道の探索中に犯した誤りである。毛沢東は全ての局面でも文化大革命的な誤りを堅持した。但し制止と糾正もまた誤りを犯した。

        詳しい説明は 【文化大革命】 ☜ をクリックしてください

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      2017年11月24日金曜日

      「百花斉放・百家争鳴」:文化大革命への序章であり、人民への重大な裏切り

      「百花斉放・百家争鳴」

      「百花斉放・百家争鳴」とは
        「百花斉放・百家争鳴」(あわせて「双百」とも言う。)は1956年から翌年にかけて、共産党が呼びかけた文芸・学術活動の多様化および言論自由化のスローガンである。1957年2月以降、党外に共産党への率直な批判を求めた。
       ところが、党の独裁を批判する意見が噴出。予想外の体制批判に驚いた党は、6月以降、発言者に「右派」のレッテルを貼り糾弾した(「反右派」闘争)。弾圧された知識人は55万人にも上り、これ以降、共産党批判は厳しく封じ込められたし、党に対する根強い不信が生まれた。

      共産党と民主党派の人々
       建国当初の民主党派の人々の役割
       建国当初は、民族ブルジョワ階級代表として民主同盟や民主建国会などの民主党派の人士も、国内の反動勢力との闘いに積極的に参加し、それなりに積極的役割を果たしていた。そして民主人士を含む知識人に対し、共産党は思想改造を呼びかけ、徐々に思想統制を進めた。多くの知識人が新しい社会に適応しようと積極的に応じていたし、党の方もそれほど急激な改革を望んではいなかったし、緩やかな改革を進めていたが、朝鮮戦争が終わり、冷戦が始まりしかも、中ソ紛争まで、起こってくるようになると、党は社会主義体制の急進化のために、人民内部の矛盾を速やかに解消し、次なる段階に進める必要が生じてきた。

       
      「人民内部の矛盾」

       1956年2月のフルシチョフによるスターリン批判は、反体制の高まりに発展する危機意識があったし、中国国内でも農村では農業合作社からの農民の脱退、都市では労働者のストライキ、学生の授業ボイコットなど、社会の不満が噴出しており、人民内部の矛盾を速やかに解消することに迫られていた。   緩やかな社会主義化のときは人民と党の間の軋轢はそれほどでもなかったが、社会主義化の速度が速くなると、両者の軋轢が次第に大きくなっていった。
        そこで双百の方針を打ち出し、人民内部の不満を吐き出させ、正しく処理しようとしたが、一部の民主的人士が激しく党を攻撃したため、共産党は態度を硬化させ、それまでの方針を一転して、民主党派の人々も含め「右派分子」のレッテルを貼り、弾圧に乗りだした。

      反右派闘争の結果とそのもたらしたもの

       「右派分子」のレッテルを貼られた人々は労働改造所送りになるなど政治的抑圧を受け続けたし、そのほかの人々も「右派」のレッテルを貼られるのを恐れ、上級の指示に盲目的に従うようになり、人々の言動は全体として、極左的に偏向していった。やがてそれは大躍進や文化大革命に顕著な流れを生み出していく。



      2017年11月9日木曜日

      日清戦争:中国の阿鼻叫喚の始まり日本の戦争立国への序章


      日清戦争

       日清戦争は、世界中に中国が、決して強大な国ではないことを、衆目にさらしてしまった。1894年に始まった日清戦争で、中国は為すところなく敗れ、1895年4月には、下関講和条約で、その屈辱的条件を呑まざるを得なかった。
       それから世界の帝国主義国の簒奪を受け、50年の長きに亘って、日本が太平洋戦争に敗れ、中国大陸から放逐されるまで、その国土は蹂躙され続けた。

      日本の帝国主義的野望牙をむく
      日本と清国の関係を約150年前に遡り時系列的に流れをつかむ

      すべての始まりは、1871年に日清修好条規が結ぼれて対等な内容で国交が樹立されたことから本格的に始まった

      手始めに台湾
      1. 1874年に台湾出兵
      2. 1879年には琉球処分を強行
      朝鮮に触手を伸ばす
        朝鮮を中国から切り離しにかかる
      1. 朝鮮をめぐり1875年に江華島事件を起こして開国を要求
      2. 1876年に日朝修好条規を締結
      3. 清国 壬午軍乱(1882年)・甲申政変(1884年)と相次いだクーデターへの介入、朝鮮の内政への関与
      4. 1894年に朝鮮で発生した東学党の乱(甲午農民戦争)・・日本にとり出兵 と清朝の影響力排除の格好の機会として利用された。ソウルに進軍した日本軍は親日政権を擁立
      本命の中国への攻略
      1. 直後に清国軍に対する攻撃を開始
      2. 1894年7月に日清戦争勃発
         陸海両面で展開された戦争は、まもなく日本側の全面的な勝利へと帰結した。
      3. 陸上では清国軍が朝鮮より退却し、追撃する日本軍が1894年10月に鴨緑江を渡って満州へと進撃
      4. 11月に遼東半島先端の旅順を占領した。そして海上では、9月の黄海海戦で東洋有数と称された北洋艦隊に勝利
      5. 1895年1月 その本拠地の山東半島威海衛を攻撃、2月陥落させた。
      6. 清朝側は講和を受け入れ、李鴻章を日本に派遣して伊藤博文らと下関で交渉開始させた。
      7. 1895年4月に下関条約(講和条約)
      下関条約と東アジア情勢の転換
       こうしては、近代東アジア史の重大な転換点となった。伝統的な中国を中心とした地域秩序は完全に解体し、かわって日本が優位に立ったものの、こうした状況は中国そして朝鮮に対する欧米列強の進出競争をもたらした。そうした結果、アジア全域で植民地のほしいがままに置かれることとなる。

      中国自身の影響
       歴史的な周辺諸国に対する宗属関係は完全に撤廃された。中国のアジアにおける地位は劇的な変化を遂げる。また、これにより、中国は列強帝国主義国から植民地的支配を受け、長きにわたって外国の蚕食を受けることとなり、中国の近代化は著しく遅れた。また国内的には、中国人にとり「中体西用」の限界牲を強〈認識させ、かわって日本をモデルに全面的な近代化を推進すべきであるとする変法論を台頭させることとなった。かくして、アヘン戦争以来50年の清国の国際的地位の失墜はいよいよ決定的なものとなり、これから先、清朝が倒れ、中華人民共和国が建設され、独立を達成するまでの更なる50年間いばらの道を歩むこととなった。さらに経済的には、その負の遺産を払拭するまでの間、さらに50年の月日を要することとなる。

        日本にとって日清戦争
         日本側にとってはまたとない懸案解決の機会となったこの下関条約で、まず清朝に対しては朝鮮の「完全無欠なる独立自主」を認めさせ、後に近代対等外交として両国の国交が再開されたことで、さらに欧米各国と同様に協定関税制度や領事裁判制度などのいわゆる不平等条約の適用を認めさせ、日本優位の不平等関係へと変わった。さらに台湾を日本に割譲することを承認した。これ以後50年間にわたり日本の領土として植民地支配を受けることとなった。こうして、日本は清国からの膨大な賠償金をてこに更なる近代化を達成させ、地理的な条件も幸いして、中国の利権をほしいがままに手にしていくことになる。この成功体験?が、日本に慢心を植え付け中国は日本の生命線とまで位置づけ、やがて日中戦争、第2次世界大戦まで突入することの誘因となってくる。
          中国百科検定攻略「歴史」のホームページ に戻ります。

          2017年11月3日金曜日

          アヘン戦争 イギリスが中国に仕掛けた最も卑劣な戦争:中国の苦しみの始まり

          第8章 近現代史 アヘン戦争


          アヘン戦争
             アへン戦争はイギリスによって仕掛けられた歴史上最悪の最も醜悪な戦争だと思います。いくら帝国主義にあると言えおよそ人間性のひとかけらもない戦争であったでしょう。勿論戦争に人間性を求めること自体がおかしいのかも知れませんが、それでも何らかの大義が求められるはずなのに、この戦争についてイギリスの自国に対する大義すら初めからなかったのではないかと思います。

           イギリスはこの戦争から後も、アジア、アフリカ、中東に魔の手を伸ばし、侵略と略奪を欲しいままにします。現在のアフリカの惨状や中東の混乱は基本的にすべて、この頃のイギリスを筆頭とするフランスなどの帝国主義的侵略に起因すると言えます。

           従って、イギリスを始めとする列強帝国主義国は現在の世界情勢の混乱に対して責任を負うべきだと考えます。


           アヘン戦争についてはここをクリックしてください。

          2017年8月24日木曜日

          諸子百家総論 春秋戦国時代に活躍した思想家・理論家たち

          諸子百家総論
          春秋末期から戦国期にかけて現れた思想家やその学派の総称。出典は 『史記』買生列伝。「買生(買誼)は年少きに、頗る諸子百家の書に通ず」とある。
           今日では一般に、儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家の九家 (「漢書」 芸文志 ) に、さらに兵家を加えた十家を諸子の学派と考える。
           西周封建の秩序が崩壊し社会が大きく変わろうとする変革期に、多くの思想家が、どのようにして社会を治めるかという統治論を唱えたが、同時代ならびに後世に最も影響を与えたのは、孔子・孟子・荀子らの儒家の思想である。

           
          以下概括的に述べる。
          • 儒家:孔子(BC552年‐BC479年、魯:現在の中国山東省)を始祖とする思考・信仰の体系である。中国、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。
            基本的には、群雄割拠の時代にあって、如何に平和裏に世を治めるかを説いた君子論である。孔子の死後、孟子が性善説、荀子が性悪説を説いて、それぞれに儒家の一派を構成した。

          • 道家:老子,荘子を代表とする思想的潮流の一つ(老荘思想ともいう)。儒家や墨家における人の道・振る舞いを排除し、宇宙の根源的存在としての「道」にのっとった無為自然の行いを重視する思想。「道」には様々な解釈があり、道家の名は「道」に基づく。

          • 法家:中国の戦国時代にあって、厳格な法という定まった基準によって国家を治めるべしという法治主義を説いた。儒家の述べる徳治のような信賞の基準が為政者の恣意であるような統治ではなく、厳格な法という定まった基準によって国家を治めるべしという立場である。秦の孝公に仕えた商鞅や韓の王族の韓非がよく知られている。

          • 墨家:中国戦国時代に墨子によって興った思想家集団であり、諸子百家の一つ。 博愛主義(兼愛交利)、非攻を説き、また武装防御集団として各地の守城戦で活躍した。 墨家の思想は、都市の下層技術者集団の連帯を背景にして生まれたものだといわれる。
             一時は儒家との双璧を為すほどの勢いを得たが、秦の国家統一のと共に忽然と姿を消した。
             平和主義を説いた武装集団であるが、戦乱の世の中で力を得たが、世が治まると却って存在意義を失った。

          • 名家 :代表的な思想家として、公孫龍や恵施が挙げられる、諸子百家の1つである。中国の戦国時代を中心として、一種の論理学を説いた。
             往々にして詭弁に陥り、公孫龍が唱えた「白馬非馬」(白馬は馬に非ず-白馬は『白馬』であって『馬』ではない)などは後世詭弁の代表として伝えられたほど。

          • 陰陽家:代表的な思想家として騶衍(すうえん)や、公孫発などが挙げられる、諸子百家の一つ。世界の万物の生成と変化は陰と陽の二種類に分類されると言う陰陽思想を説いた。後、戦国時代末期に五行思想と一体となった陰陽五行思想として東アジア文化圏に広まった。

          • 縦横家:巧みな弁舌と奇抜なアイディアで諸国を行き来し、諸侯を説き伏せ、あわよくば自らが高い地位に昇ろうとする、そのような行為を弁舌によって行う者が縦横家である。
             彼らには、それぞれの思想に基づく理想を実現するためという思想性はなく、単に口先三寸の世渡り的は振る舞いをすることを特徴とする。合従策を唱えた蘇秦と連衡策を唱えた張儀が有名。

          • 雑家:雑家(ざっか)は、諸子百家の一つであり、 儒家、道家、法家、墨家など諸家の説を取捨、総合、参酌したいいとこ取りの(百科全書的)学派である。

          • 農家 :古代中国の戦国時代の諸子百家の一つ。代表的思想家は許行。農業の重要性を説く。等しく農業に従事すること、物価を均等にすることなど平等社会を主張した

          • 小説家:春秋戦国時代の諸子百家の一つ。代表的思想家や著作に鬻子・青史子・師曠がある。故事(世間の出来事、説話など)を語り伝え、書物にして残した。
             民間の風俗を管轄する役人の間から発生したと推察される。

          • 兵家:諸子百家の一つ。軍略と政略を説く。代表的なものに「孫子の兵法」がある。孫子の兵法は13の篇からなり、今だに研究されている歴史的な書物。

          2017年8月3日木曜日

          朝鮮史 三千年の中国外史 これを知れば朝鮮民族のしたたかさが分かる

          中国と朝鮮のかかわりの歴史

          このブログで朝鮮通史を取り扱うことについて
           ここは、中国の歴史を扱うサイトであるので、朝鮮の歴史を論ずるのは少し場違いなところがある。しかし中国の歴史を正しく捉えようとすれば、朝鮮の歴史を正しく捉えなければならないと思う。それは朝鮮が中国から一貫して独立していたとか、していなかったというような次元の話ではないと考える。
           そこでは中国から見た朝鮮、朝鮮から見た中国という双方からの歴史観で冷静に探求する姿勢が必要だと思う。

          朝鮮通史年表
           しかし、ここではごく大雑把に朝鮮史を概括的に捉えることを目的とし、細かい中国と朝鮮の歴史の係りについては、その都度とりあげることとする。


          ヴィキペディアより
          引用

           さて、朝鮮の歴史については、ヴィキペディアのサイトを参考にしてみたい。これが正しいという訳ではないが、一つの客観的な資料と考えるからである。

           これらの歴史年表から見て、朝鮮が非常に長い期間にわたって、中国の支配力の下に生きてきたことが見て取れる。例えば漢の時代「4郡」という漢の行政機関が存在しているし、唐の時代には「都護府」という唐朝の行政官の名前が見えるし、さらに下って、宋の時代には、後金から、元ー高麗の時代、明清の時代に至っても、中国からの圧力と抗争に明け暮れている。  それらのことは、韓国の数々の物語でも繰り返し語られていることでもある。
           従って、「朝鮮がいかなる時も中国の一部であったことはない」と主張する人々もいるようであるが、この歴史的事実から見る限りは、論拠に薄い感じが否めない。

           しかし朝鮮の人々が長年に亘って、中国の支配を受けたり、或いは属国になったということは、朝鮮の人々が能力がなかったとか劣っていたということではなく、地理的につながっていたという事実と、地政学的に半島の小国が独立を維持することが如何に難しいことであるかを物語っているだけだ。

           逆に長い間非常な困難の中で、朝鮮の人々が、自らの尊厳を守り、民族としての自負を守り抜いてきたかに感心をせざるを得ない。
           私は、朝鮮の人々の全体として誇り高い心意気に尊敬の念を持つものである。

           朝鮮にせよ、ベトナムにせよ、フィリッピンにせよ、皆誇り高く崇高な尊厳を持って闘っていることに大きな希望を持つ次第だ。逆に日本人が見習うべきところがあるのではないかと感じてしまう今日この頃である。

           しかし、今不幸にして、38度線を境として、南と北に分断されている。直接の紛争の起こりは、北朝鮮が一挙に南朝鮮に侵攻したことである。それは歴史的事実であるが、その前に、1949年に中国が中華人民共和国を建設し、アメリカが自らの支配体制を維持に危機感をたぎらせ、北朝鮮、ソ連、中国に激しい敵愾心を持っていたことは確かで、その具体的政策が朝鮮戦争に繋がったのは事実である。
           


          2017年5月1日月曜日

          トランプ大統領と朝鮮


          北朝鮮とトランプの危険な火遊び

           最近、最近北朝鮮が挑発を繰り返している。それに対しトランプは戦争も辞さないと気違いじみた発言を繰り返している。トランプの策謀に乗ってはならない。
          トランプ大統領が中国の習近平主席と会談した時、習主席から聞いた話として、「韓国は実際に中国の一部だった」と公の席上で明らかにしたことは、世界中に波紋を引き起こしている。

           かれのこの発言は、トランプ大統領が習主席の“歴史講義”の内容をそのまま伝えたものかもしれないが、習主席の説明に自分の考えを混ぜて話した可能性もあると見られる。 このような発言を公開的に行ったのは、韓国の歴史について無知であることを表しただけでなく、外交的欠礼であることから、波紋を呼んでいる。トランプ大統領のこうした無節操な発言は、世界を混ぜ返すだけのものであり、およそ世界の指導者のとるべき態度ではなく、強く非難されるべきである。
           またもし、習主席が首脳会談で実際にこのような趣旨の話をしたならば、これも覇権主義的発想であり、自国中心的な歴史認識だという批判を免れない。


            今また北朝鮮を巡って不穏な空気が流れているし、戦争が勃発する危険すらある。
           この場に至っては迂闊なことはいえない。しかしいえるのは、北朝鮮をテーブルに着かせる粘り強い外交交渉が原則だということである。トランプは軽々しく戦争も辞さないということを発言しているが、戦争で傷付くのは、北朝鮮、韓国、日本、中国の国民で、アメリカではないことは決して忘れてはいけない。トランプの頭の中にあるのは、ICBMがアメリカに到達させないことだけだ。それが避けられるなら、他はどうなってもかまわないというのが、彼の今までの発言からはっきり見えていることではないだろうか。

           ここではトランプ氏の意図とこのような発言の是否は、別として、実際に中国と朝鮮の歴史がどうなっているのか、触れてみたい。
           普段から韓国の歴史に関するサイトでは、正直言って、「民族主義的」な見解が見受けられ、彼らの意図は別として、歴史をゆがめるものではないかと心配をしている。竹島問題、慰安婦問題を歴史の歪曲と主張する一方でこのような民族主義的見解が多く見受けられるのはやはり、「いかがなものか」と問いかけざるを得ない。ここはこのような時期だからこそ冷静に話し合う態度が望まれる。


           詳しい説明は 【中国と朝鮮のかかわりの歴史】 ☜ をクリックしてください


          2017年2月21日火曜日

          古代の土地制度と税制 中国封建税制の原型が全てそろう

          古代の土地・税法

          ①屯田制
          一般に、兵士に新しく耕地を開墾させ、平時は農業を行って自らを養い、戦時には軍隊に従事させる制度。前漢の武帝の時が最初といわれる。

          ②占田課田法
          中国、西晋の武帝が280年に発布した土地制度。占田は個人の土地所有の最高限度額を、課田は農民に一定の土地を割りつけ耕作させることを規定したものと推測される。

          ③均田制
          国家が土地を所有し、人民に分与して耕作させた中国古代の土地制度。貴族・豪族による土地の私有化を抑制して、国家の租税収入を確保することを目的とした。五世紀後半北魏(ほくぎ)に始まり、唐代半ば(八世紀)まで行われた。唐で実施された口分田はこの均田制が基になっているといわれている。その中身は口分田(くぶんでん)・永業田を支給し、その代償として租・庸・調や兵役を課した。

          ④佃戸制
          中国の小作農制度。均田制崩壊後の唐中期から宋代にかけて、荘園の耕作者として一般化。宋では主家から独立していたが、経済的に多くを依存していた。明・清代には地位も向上。

          ⑤井田制(チンデンセイ)とは、中国の古代王朝である周で施行されていたといわれる土地制度のこと。周公旦が整備したといい、孟子はこれを理想的な制度であるとした。
          まず、1里四方、900畝の田を「井」の字の形に9等分する。そうしてできる9区画のうち、中心の1区画を公田といい、公田の周りにできる8区画を私田という。私田はそれぞれ8家族に与えられる。公田は共有地として8家族が共同耕作し、そこから得た収穫を租税とした。以上のような内容が孟子によって語られているが、ほとんど伝説上の制度といってよく、その実態は依然として不明である。



          「乱」で貫かれた中国史 乱物語 乱の果たした歴史的役割

          乱で貫かれた中国史

          秦:陳勝・呉広の乱  BC209年
           始皇帝の死の翌年の前209年、秦の支配に対して起こされた農民反乱。これは歴史上初めての農民反乱として重要。その首謀者陳勝と呉広はいずれも貧農出身。秦の過酷な圧政に対する不満が噴出して、各地で呼応する反乱が起こった。反乱軍は内紛から瓦解し、鎮圧されたが、それに誘発された農民出身の劉邦の挙兵、また楚の王族であった項羽の挙兵などで一挙に秦を滅亡させることとなる。

          前漢:呉楚七国の乱 BC154年
          漢王朝は一族を封建領主として地方に分散させていたが、その内の呉にも領土削減の命令が届いたことを不満として、呉の王は反乱に踏み切った。これに楚・趙など六王が同調して反乱に加わった。呉も合わせて七国となったため、この反乱は後に「呉楚七国の乱」と呼ばれた。
           
          新:赤眉の乱  AD18年
          中国の「新」朝末に発生した農民反乱軍の名称。眉を赤く染め政府軍と区別したことから赤眉軍と称される。山東の琅邪郡海曲県で法が過酷であり賦税が重いことをが原因で拡大した。天鳳5年(18年)に海曲県の西、莒県(現在の山東省莒県)で蜂起した、琅邪出身の樊崇を指導者とする反乱軍に合流した。

          後漢:黄巾の乱 AD184年
          中国後漢末期の184年(中平1年)に太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。太平道は後漢末の華北一帯で民衆に信仰された道教の一派。
          晋:八王の乱 AD291年
          中国の王朝晋(西晋)の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱である。魏から禅譲を受けた司馬炎により、中国は100年にわたる三国時代に終止符を打って全土が統一されたが、その平和はわずか数十年で崩れ去り、この後中国は隋が統一するまでのおよそ300年にわたり、再び動乱の時代となる。

             永嘉の乱 304年~316年
          中国西晋末に起こった異民族による反乱である。懐帝の年号である永嘉からこう呼ばれているが、この乱により西晋は滅亡した。
          梁: 侯景の乱 548年
          梁の実質的滅亡 (梁、502年 - 557年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した王朝。

          唐:安史の乱 755年
          安禄山の乱(あんろくざんのらん)とは、755年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山(突厥系の将軍)とその部下の史思明が起こした。
          直接の原因は安禄山と玄宗皇帝の寵愛した楊貴妃の一族の対立であるが、背景には律令制度の弱体化があり、この乱以降は各地の節度使(藩鎮)がいよいよ力を得、朝廷は弱体化した。この乱による国内の乱れは、杜甫の「春望」にも読まれている。

             黄巣の乱 875~884年
          中国の唐末期に起きた農民の反乱。880年、黄巣は一度は長安に入って国号を大斉とし皇帝の位に就くほど勢いを得たが、唐軍の反撃を受けて今の山東省、泰山付近で敗死した。この乱は唐朝滅亡のきっかけとなった。
          宋:靖康の変(せいこうのへん)は、1126年
          宋(北宋)が、女真族(後世の満州族の前身)の金に敗れて、中国史上一貫して政治的中心地であった華北を失った事件。靖康は当時の宋の年号である。金は宋の上皇(前皇帝)徽宗・皇帝欽宗などを捕らえ、拉致したことで、北宋が滅び南宋となった。
          元:紅巾の乱 (1351年 - 1366年)
          中国元末期の1351年(至正11年)に起こった宗教的農民反乱。白蓮教を縹渺し、目印として紅い布を付けたのでこの名がある。反乱軍は紅巾賊または白蓮教徒が弥勒に焼香をするため香軍と呼ばれる。この大乱の中から明の太祖朱元璋が登場することとなる。
          明:李自成の乱 (1631-1645)
          明末の李自成が起こした農民反乱。北京を占領し、明王朝を滅ぼしたが、清に鎮圧された。 
          清:三藩の乱 1673年
          清朝第4代康熙帝の1673年に起こった漢人武将による反乱。雲南の呉三桂、広東の尚之信、福建の耿精忠が反乱を起こした。三藩は明滅亡後に南へ亡命した諸政権(南明)を指す事もあり、その場合は南明を前三藩、呉三桂たちを後三藩として区別する。

             白蓮教徒の乱(1796年から1804年)
          白蓮教の信徒が起した反乱である。乾隆帝が和珅の兄弟の和琳を白蓮教の鎮圧に送りこみ、全土で民衆多数が犠牲になり、これ幸いと官吏たちは金銭の収奪などを行った。1795年、乾隆帝が嘉慶帝に皇位を譲ると、和珅が地位を利用して専横を開始した。 これらの事で民衆は不満を募らせ、1796年(嘉慶元年)に湖北省で白蓮教団の指導の元に反乱が発生。これを契機に陝西省・四川省、河南省・甘粛省でも次々に拡大した。

             太平天国の乱 1851年から1864年
          洪秀全が中心となって起こした近代中国の大農民反乱。キリスト教信仰をもとにした拝上帝会を組織した洪秀全が、広西省の金田村を拠点に蜂起し、1851年に「太平天国」の国号で独立国家を樹立した。1853年には南京を都に天京と改称し首都とし、太平天国という独立国家を樹立したが、郷勇などの漢人勢力、外国軍の介入によって滅ぼされた。
          太平天国の内では、アヘンの吸引は禁止され、満州人の習俗である辮髪は否定され、封建的な纏足の風習などもやめることが奨励された。また土地を平等に分け与えよという主張も多くの支持を得、この乱が勢いを増したといわれる。 滅満興漢 満州人の政権である清朝を滅ぼし、漢民族の国家を復興させようという意味の太平天国が掲げたスローガン。
          回民蜂起1862年
          1862年に陝西省で、回民の太平天国に呼応した蜂起が発生し、また同時期に寧夏でも蜂起軍が発生し、一時は西安を包囲までになったが、結局1863年秋に敗北した。
          太平天国の崩壊後、左宗棠が率いる湘軍が陝西に入った。左宗棠は河州(現在の臨夏市)の馬占鰲の回民軍を投降させ、清軍に編入した。河州の回民軍を加えた左宗棠は西寧を攻略した。その後清軍は甘粛省に入り、甘粛省の拠点である粛州(現在の酒泉市)を包囲した。10月に粛州は陥落し、指導者である馬文禄はじめ7千人が処刑された。生き残った者は甘粛省南部に移住させられた。白彦虎率いる回民軍は、東トルキスタンのヤクブ・ベクのもとに逃れ、最後はロシアにまで逃れた。この子孫が現在のドンガン人である。 被害:この蜂起の結果、漢人と回民が両方も多く殺害された。甘粛省で出した死亡の件はほぼ漢人であった。戦乱の前に陝西省では70~80万いたの回民が10年後にはおよそ10分の1まで減少したという。
          ヤクブ・ベクの乱 1860年代から1870年代
          東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区)をめぐる戦乱。ムスリムの蜂起の結果、ヤクブ・ベクによって東トルキスタンは統一されたが、最終的にヤクブ・ベクは清の左宗棠に敗れ、ヤクブ・ベクが臣下に殺されることで崩壊した。

             壬午軍乱 1882年
          朝鮮の首都漢城(ソウル)で起きた事変。日清戦争の契機となる
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          2016年10月18日火曜日

          明・清時代の税法改革 一条鞭法と摊入地亩 

          明清の一条鞭法と摊丁入亩

          明の中葉以来、土地の兼併が大変大きくなり、官吏の政治の腐敗はさらに深くなり、この状況の下で、明は田畑の測量をし、税と糧食の平準化は理財安民を収める重要な課題であった。
           張居正の改革はまず軍事・政治に着手し、経済側面に拡張していくというものだった。彼は田畑の測量を通し、賦役制度の改革をし、一条鞭法の措置を推進し社会矛盾の解消を図り、財政危機を救った。
           崩壊の水際に迫っていた明王朝を少しの間だけども蘇生させ繁栄をもたらした。清のはじめの賦役制度は明王朝を引き継いだ。

          一条鞭法とは
           明の万暦9年、張居正は全国に一条鞭法の推進の命を下した。まず最初に、賦役を合併し、煩雑な制度を簡素化した。各省、府、州、県の田賦と徭役の総量と土貢・地方産物などの項目の徴収を総計し、これを一つにまとめて、統一的に徴収した。ゆえに一条鞭法と呼ばれる。
           ここでの改革の要旨は、税法システムの簡素化と賦役と土地税を統一することにより、税負担の均等化を図ったことである。

          摊入地亩とは
           康熙五十年 (1711 年 ) , 清朝第4代康熙帝はまず小幅改革を実施している。人頭数を固定し、以降人頭たる労働力を養い、賦課を増やさなかった。
           続いて第5代雍正帝は皇位を告ぐと改革に突入した。人頭税である摊入地亩で、田畑の多少で納税の数目を定めた。土地を多く持つものは多く納め、土地の少ないものは少なく納めるようにした。土地のないものは無税とした。
           摊丁入亩制度は中国封建社会の後期の賦役制度の第一次の重要な改革となった。制度は一定程度の漢唐以来の人頭税を廃し、農民対封建国家の人身に寄り添って頼る関係を一歩緩めた。田畑納税の按分は土地を持たない農民の法律上納税をなくした。賦役の不均等の現象は緩和された。生産の発展と社会の安定に有利に働き中国の人口増加と社会経済の発展に重要な意義をもたらした。




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          2016年7月20日水曜日

          中国外史:元寇と日本とアイヌは互角に戦いを繰り広げていた

          元寇と日本とアイヌ

           元との関係では日本にとっては国の開闢以来の出来事として、元寇の襲来を上げなければならない。元の時の皇帝フビライはマルコポーロの感化もあり日本を服従させたいと考えていた。日本の北条政権に対し、6度にわたり朝貢をするよう使節を送ってきていた。にもかかわらず、時の執権北条時宗はそれをことごとく拒み、最後にはその使者を切って捨ててしまった。かくして外交上のルートは完全に途絶え、元は日本を服従させるべく大量の軍隊を日本に送り込んだ。これが文永弘安の役である。この時に神風が吹き蒙古軍が大きな痛手を被ったとされているが、少なくとも文永の役のときには、そのような大きな嵐があったという記録は蒙古側にもなく、その証左もないようである。


          日本の状況
           その時代は鎌倉幕府で権力は北条氏が握り、全国を守護、地頭という封建領主に割り当て、封建制度は確立していたといわれる。また幕府直轄の御家人集団が、全国に配置され幕府から要請のあったときは「いざ、鎌倉」の号令の下、はせ参じるようになっている。この封建制度が完備していたことが、蒙古襲来に対し大きな力を発揮したといわれている。 

          アイヌとの闘い
           ところで、文永の役の十数年前に元は樺太に兵を送り込みアイヌと戦闘を交えていることは日本ではほとんど知られていない。あの強大な元を相手にアイヌが約10年もかけて果敢に戦ったことは、驚嘆に値することではなかっただろうか。このことについては鎌倉幕府には何も情報を持っていなかったようである。このように当時の日本民族にとって蝦夷の地は最果ての地であり、全く見えていなかったのかもしれない。




          詳しい説明は 【元寇とアイヌ】 ☜ をクリックしてください

          参考文献*************

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          2015年12月7日月曜日

          土地改革は朝鮮戦争を契機として、急進的な方法に変質し、そのことによる矛盾も多く噴出した

          土地改革

          2000年の間特徴づけられてきた中国農村の状況は一新された。まさに土地改革こそは、新生中国にとっての最重要課題であった。土地の均分を求める中国農民の二千年来の希求でもあったといわねばならない。

           これにより中国農村は新しく生まれかわり、地主階級が打倒されて土地を手にした農民(貧農・中農)による農業生産も著しい上昇を示した。その政治的な意義は、農村の権力構造を再編し、統治を社会の末端にまで浸透させるのに大きな役割を果たした。

          土地改革は何?
           土地や農具等の財産を地主・富農などの大土地所有者から没収し、それらを貧しい農民に分配した改革である。その改革は土地改革法が公布された1950年6月から始まり、1952年の年末に完了した。

           この改革は当初、策定された「土地改革法」に基づき、比較的穏健な方法で時間をかけて行う予定であったが、公布直前になって発生した朝鮮戦争により事態は一変した。戦時経済体制の構築を急いだ政府は、改革のテンポは速められ、方式も急進化した。

          土地改革のもたらしたもの
          しかし、一方このような性急な方法は多くの矛盾を引き出した。
          土地改革の結果、当初は著しく生産性は向上したが、53年になると早くも農業生産の停滞的な傾向もあらわれた。

          • 加えてこれらの土地改革はきわめて暴力的、急進的に行われ、華南や江南以外の地主制が発達していない地域においても、一律に富農・貧農に区別され、中農ですら土地を取り上げられ、著しい政治的抑圧を受けた。
          • 人口に一律に割り振ったため、日本の零細農家よりも小規模な農家を多量に生み出し、農業生産性が大幅に減少した。
          • 一方中国では土地売買は自由な経済活動として保証されており、改革後にも自由な経営を許せば、再び農家の階層分化が起きるという矛盾を持っていた。
          • そこで、1953年から統一購入・統一販売を導入した、一部には配給にもなったが、食料の不均衡配布のため、食糧暴動すら発生した。
          • この矛盾の解決のため、農業・農村の再編成が必要となり、1955年以降農業集団化が強行された。

          農業生産の停滞と増強のプレッシャー
          このような農業面での停滞は経済の基本的な部分を農業生産に依存している中国にとって、小土地所有農民に分割された小農経済がふたたび定着していくことにつながり、中国が目指す社会主義改造にとっても大きな障害になるものだと見なされた。
           加えて朝鮮戦争、冷戦の始まり、ソ連との軋轢など中国を取り巻く状況の変化は、生産増強へのプレッシャーはさらに強大なものとなった。

          土地の私有化と集団化の矛盾
          しかし、自分の土地をもてるようになるという期待こそが革命への参加の最大の動機であった多くの農民にとって、いったん自分のものとなった土地がふたたび集団所有化されていくことはきわめて深刻な矛盾であり、土地改革から農業集団化への歩みのなかには、さまざまな軋轢や緊張が生じたのであった。

          中国共産党の二律背反と禍根
          中国共産党はこの過程を段階革命論で合理化したが、結果的には中国国民に対する裏切りに等しい欺瞞的政策と非難を受けることとなった。この合理化とは「革命には段階があり、最初の段階で富農から土地を奪い、農民に与えるという無産者革命の段階、次の段階に革命が進めば、その土地を集団化して、社会主義路線に乗せることは革命の発展の過程である」というものであった。
           しかもこの土地改革は大衆的に、暴力的に行われ、多くの犠牲を伴った。こういった政治手法は、後の「百家斉放、百家争鳴」と「反右派闘争」でもそのまま踏襲され、文化大革命でも拡大発展(?)されることになり、中国共産党に対する根強い不信を植え付けることとなった。
           毛沢東は、中国の歴史の中での「XXの乱」といった反乱からよく学習し、大衆を動員し、その無差別的暴力を鼓舞し、攻撃を仕掛けるという手法を用い、その怖さを知り尽くしたうえでそれを100%利用したある意味では稀有の政治家ではなかったろうか。
           例えば秦の始皇帝や明の朱元璋のような暴君が恐怖政治で支配を強めたのに対し、毛沢東は彼らのように自らの暴力装置を前面に置かず、大衆を前面にたて、その暴力でもって支配したという意味では、はるかに高度な(?)政治手法だったと言えると思う。
           しかしながらそのような手法も、大衆の民度が低い場合に限って可能であり、今日の中国人民のように文化大革命を経験し、その中から多くのことを学んだ大衆に対してはそれを使うことはできないのではなかろうか。
           この手法を未だ使うことができる国は宗教が支配している国々が想定されるのだが・・・。

          参考文献
          「中国百科」 (P230,日本中国友好協会編、メコン社)
          「中国現代史」 (P205、中嶋嶺雄編 有斐閣選書)


           「土地改革」  ☜ 詳しい説明はこちらをクリックしてください

          2015年11月21日土曜日

          中国近現代史 洋務運動と中国の近代工業の導入と近代化

          洋務運動

          アへン戦争以来の欧米との戦闘経験は、その軍事力の優越性を否応なく中国国民に認識させた。そこで1860年代より、清朝当事者の手による軍事分野の近代化が開始された。
            これを端緒として、はじめられた近代化・西洋化の取り組みを「洋務運動」と称する。以後日清戦争に至るまで、「西洋の実務」を取り入れるべく、複数の分野で近代化が推進されていった。
          • 近代工業導入と関連産業の近代化
          • 軽工業、石炭、鉱業、運輸、通信、交通

          • 総理衙門の近代外交
          • 外交

          • 洋務運動の限界と利点
          • 中体西用

            近代化の成果は、以後の中国社会の変革の重要な基礎
          詳しい説明は 【洋務運動】 ☜ をクリックしてください


          2015年11月17日火曜日

          「義和団事件」:日清戦争後の民衆の蜂起は中国を更に苦しめる

          義和団事件

          事件の背景と顛末
           日清戦争以後、弱体ぶりを露呈した清朝に対して列強各国は各種の利権獲得など、進出の動きを強めることとなった。さながら中国は帝国主義国の草刈り場の観を呈することとなった。
           このことで、列強帝国主義の抑圧は直接民衆に降りかかり、排外主義の高まりを促した。そうした背景の中で、農村各地の民間結社が、義和団運動となって、連鎖的に排外活動の色彩を帯び、暴徒化し、都市部では、電信線や鉄道など広く外国に由来する事物を破壊するようになった。こうした事態を各国は、千載一遇のチャンスととらえ、居留民保護を名目に北京へ派兵した。
           これに対して清朝内部では、列強がこれを機に中国分割を実行することを危慎する意見が台頭し、各国軍との軍事衝突が発生した。これを事実上の開戦と理解した西太后は1900年 6 月宣戦を発し、ここに事態は英・仏・米・独・奥 ( オーストリ ア ) ・伊・露・日の 8 ヵ国連合軍と清朝との戦争に発展した。これが義和団事件である。
           これを映画化したのが、「北京の55日」という映画である。チャールトン・ヘストン主演だった。義和団は映画では悪役であるが、今日の中国では義賊として、半ば英雄視されている。

           事件の結末
           8 ヵ国連合軍は清朝正規軍および義勇兵に編入された義和団との戦闘を継続し、同年 8 月に北京を攻略・占領し、西太后らは西安に逃れた。
            その後は李鴻章が講和交渉の任にあたり、 1年近くをかけて 1901 年 9 月に北京議定書が成立した 。 これにより、清朝は莫大な賠償金をを39 ヵ年にわたって支払うなど、重い代償と引き替えに講和は成立した。
           このことはこうした事態を招いた自らの「後進性」の直視とともに、徹底した改革の必要性が西太后以下、政府当事者から在野の知識人に至る社会指導層の共通認識となっていった。 しかし、時すでに遅しで、慎重にはこれに対応する力はもう残されてはいなかった。

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          二度にわたる国共内戦と日中戦争 蒋介石

          国共内戦

          中国は二度にわたる国共合作を行い、それに対応して2度の国内内戦を経験している。しかしこれらの2度にわたる国内内戦は、いずれも蒋介石が仕掛けたものであり、その意味では蒋介石側にとって大義がなかったといわねばならない。
            二度目の国内内戦は、先の戦争における日本に対する勝利は、国共両党にとって、統一戦線を維持する根拠が喪失したことを意味した。
           大義もなく内戦を始めた蒋介石は、「新民主主義革命論を掲げ、資本主義発展を当面の間は認め、農村の根拠地では、土地改革を実施し貧しい農民の圧倒的支持を得ていた」共産党を中心とする統一戦線に敗れ、国内内戦に敗れ台湾に逃れることになる。
           同時にこの時期には毛沢東は共産党の中でその権力を確立し盤石なものとしていた。
          詳しい説明は 【国共内戦】 ☜ をクリックしてください

          2015年11月15日日曜日

          国共合作と対立の克服 対日統一戦線の成立

          国共合作と対立

          国共合作は1924年に第一次、そして1937年に第二次と2度にわたって行われている。
           それらはいずれも形の上では中国国民党と中国共産党の相対立する2つの党による合作であった。絶対に交じり合うことのない彼らが、どうして交じり合うことができたのだろうか?かつての日本人はそのことをきっちり読むことができていたのだろうか?その鍵は時代背景にあり。それを読む力は歴史を勉強する以外に付けることはできない。
           どの時も列強の帝国主義的搾取と収奪が激化し、それに対する大衆運動や労働運動が盛り上がり、統一戦線が大きな広がりを見せていた。
           第2次国共合作では第一次と少し趣が異なる。第2次国共合作の直接の原因となったのは、日本の
          関東軍に列車ごと爆破された張作霖の息子の張学良が引き起こした西安事件である。
           さらにこの時期は日本の侵略に対して、中国人の反日感情が大きく盛り上がっていたことに加え、蒋介石が率いる国民党と毛沢東が率いる共産党は依然として厳しい内戦を続けていたものの、共産党は戦力においても、党員数においても、そして大衆的にも第1次の国共合作の時期と違って大きな陣容を擁していた。
           しかしながら、この二度にわたる合作により、ようやく反日の統一戦線が成立し、日本を中国から放逐する舞台が整い、反日の闘いが中国としての統一して大きく前進することになる。
          (中島嶺雄著 「中国現代史」参照)


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